第28場 天才とヘッドフォン
彼女が喫茶店に入ると、桐野夏都は入り口近くのボックス席に陣取っていた。小さな頭を覆うヘッドフォンに左手をあてがい、右手で紅茶を飲んでいる。新聞を読みながらケーキを食する隣席のお年寄りと同じくらい休日を謳歌しているように見えた。
「久しぶりだな」
「あ、月森先輩。結構早かったですねえ」
桐野はヘッドフォンを外し、時計を見る。針は約束の時間ぴったりを指していた。
「私は人を待たせない主義なんだ」
「ほう。なら私は、人を待ちたい主義を持ってることになりますね」
にこ、と笑ってメニューを差し出してくる。彼女はそれを受け取り、店員を呼んでホットコーヒーとアップルパイを注文した。桐野に向き直り、疑問をぶつける。
「待ちたい主義?」
「はい! 私は待ち時間が大好きなんです。音楽を聴いたり、本を読んだり、好きなことがたくさんできるじゃないですか。そこに自由がある気がして」
「ふうん。考えたことなかったな」
彼女がノートを取り出そうとして鞄をあさっていると、桐野がなんだかそわそわと身体を動かし始めた。
「どうした」
「えっと……」桐野の視線がヘッドフォンに向けられる。「思ったより先輩が早く着いてしまったので、曲がまだ終わってないんですよね」
後ろにあるカウンターを見やり、彼女は抽出中のコーヒーサフォン(?)を確認した。
「もう少しかかりそうだ。聞いててもいいぞ」
「やった! ありがとうございます」
いそいそとヘッドフォンをはめ直し、桐野は端末の再生ボタンを押す。うっとりとした顔で聞き入ること5分ほど、彼女の前に注文の品が届けられた。
「あ……もう来ちゃった」
うってかわって眉を下げ、桐野はゆっくりヘッドフォンを外した。
「悪いが本題に入らせてもらう」
「はい……どうぞ」
「話したとおり、小説のネタを絞れなくて困ってるんだ。いくつか案を出してきたから、読んでみてほしい」
彼女がノートを差し出すと、ふむふむと頷きながら、桐野の手はページをめくっていく。
「……ボツ、これもボツかな」
小さな呟きは、やがて大きくなる。
「ボツ、ボツ、ボツ、ボツ! これもボツ!」
にいっと笑みを深くして、次々とボツを出す姿はなんとも楽しげだった。アップルパイを口に運ぶ彼女の表情は、だんだん苦味が帯びてくる。
「いやあ、いいですね~!」
「何がそんなに楽しいんだか」
「ボツって言われ慣れるとわかりますよ! 人にボツって言う楽しさが!」
「そんなもの、わかりたくはないね」
あはは、と笑う桐野の手が、ふと止まった。ノートをぐっと顔に近づけ、ふにゃりと口元を緩める。
「これ、いいですね」
桐野が指したのは、とある演劇部の話だった。殻にこもっていた主人公が演劇を通して人との関わりを広げていく、という物語だ。彼女はそれを見るなりノートを奪い取る。
「これは……」
眠気に襲われながら書いたものの一つだろうそれは、彼女自身読み取れないような曲がった字で、書いたことすら忘れていた。彼女の境遇に沿いすぎていて、顔が熱くなる。
「ボツ、ボツだ!」
「ええ~おもしろそうなのに。月森先輩の演劇人生読みたいなあ」
「私が演劇を知ったのはたった2年前だっ!」
墓穴を掘っているような気がしなくもないが、彼女は思わず訂正する。ふっと、桐野が微笑んだ。
「いいじゃないですか、2年でも。どっぷりつかってたんでしょう?」
肘をつき、机に置いたヘッドフォンに視線を下ろしている。
「……さっきは何を聞いてたんだ?」
「クラシックです。交響曲が好きで、今もそれを」
桐野は紅茶に砂糖を入れた。スプーンがカップに当たる音が小さく鳴る。
「私も演奏、してみたかったなあ」
漏れた呟きはドアベルの音にかき消され、彼女も聞こえなかったふりをした。
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