第12場 天才とチョコミントアイス
五月の日差しは容赦なく、道行く人々に照りつけている。もうすぐ梅雨の時期だというのに、時折夕立のような局所的な雨しか降っていない。初夏を通り越して、すでに夏が訪れていた。
「暑い……」
そんな中、長袖の制服に身を包んだ彼女が一人、ぼてぼてと亀のような歩みを進めていた。全身が紺色の制服は冬物で、見た目からして暑苦しい。彼女の部屋から夏服が見つからなかったせいだ。
「はあ、学校こんなに遠かったか?」
最寄り駅から片道10分ほどで校舎は見える。だが、実際に辿り着くまでには急勾配の坂を突破しなくてはならない。いくら運動しているとはいえ、炎天下の歩行は彼女にとってかなりの負担を強いた。ぜえぜえと息をつきながら登る彼女を、過ぎゆく学生たちがちらちら見ている。とっくに夏服に切り替わった今、冬服の彼女は浮きに浮きまくっていた。平日であればもっと注目を浴びていただろう。
そもそも、あいつが催促するのが悪い、と彼女は後輩に恨みを抱いた。見学の約束をしてしまった己も悪いが、あんなのは冗談に決まっている。それを本気にして毎日毎日メールを送ってこられるのにはほとほとうんざりした。仕方なく制服を探して出てきたものの、暑すぎてすでに気力を失っている。
死力の限りを尽くして校門をくぐった彼女は、もうどうでもよくなっていた。倒れようがなんだろうが構うまい。とにかく見たら帰ろう。そう思った。
だが物事はそう上手く運ばない。演劇部がいないのだ。部室棟下の日陰にも、下駄箱前の廊下にも、部室にも、体育館上の空き地にも、どこにも見当たらない。彼女の足は止まらない。こうなったら意地でも見つけて文句を言ってやらねば気が済まないと、校内をゾンビのように徘徊した。
途中の自販機で水分補給をしたり、数人の学生に怯えられたり図書室で涼んだりしながら彼らを見つけた頃にはすでに日が傾き始めていた。北校舎の4階、一番端の空き教室から見覚えのあるセリフが聞こえてきたのだ。
「見える、私には見えるわ!」
彼女が扉を勢いよく開けた途端、声がぴたりと止まった。中央から後ろの机は下げられ、演じていた役者が固まっている。彼は、教室のど真ん中で偉そうに腕組みをして机にもたれていた。エアコンに冷やされた空気の中を、彼女はずかずかと進む。
「あ、先輩」
「お前なあ!」
「月先輩じゃないですか! お久しぶりです!」
彼の胸ぐらを摑む前に、一人の女子生徒が立ちはだかった。友好的な笑みを浮かべてはいるが、目が面倒はやめてくれと訴えている。
「はあ、疋田か。元気そうだな」
「もう、いきなり来るなんて。聞いてないですよお」
「言ってなかったからな」
へらへらと笑う後輩を見ていたら、だんだんと怒りが収まってきた。半分は身体が一気に冷やされたせいかもしれない。
「ちょうどよかったです。今通しでやろうとしてたところで」
彼は彼女の苦労も後輩の戸惑いも知らず、のんきな物言いで話しかけてくる。彼が本当に部長としてやっていけているのか怪しいものだ。大方、実権は疋田が握っているに違いない。よければ見ていってください、と仏頂面で言う彼を見て思う。
だが、部員に向き直った彼はまるきり別人だった。
「皆さん、思わぬ邪魔が入りましたが安心してください。彼女は前副部長、月森君子先輩です。諸事情あって学校には来ていませんが、所属としてはうちの生徒です。そして、この
ぱちぱちぱち、と拍手が起きる中、彼は教卓近くに固まっている一団に近づく。
「さっきは中断したけど、今度はしっかりラストまでやります。気を引き締めて」
「はい!」
「水分補給したら位置について。10分後に始めるよ」
疋田の指示がそのあとに続き、ざわめきが戻ってくる。彼女は手頃な椅子に座り、戻ってきた彼をつついた。
「お前、意外と部長やってんだな」
「一応三ツ木先輩についてたんで」
彼女は思い出す。確かに三ツ木の断定的なしゃべり方にそっくりだ。彼はふと彼女を見て首を傾げた。
「ところでその格好、暑くないですか」
「死ぬほど暑かった。あとでアイスおごれ。チョコミントな」
「了解です」
机に緩く腰掛けた彼は、かすかに微笑んだ。
「でも、来てくれて嬉しいです。まさか本当に来るなんて」
「お前が言ってきたんだろうが」
「そうですけど返信は来ないし、もう来る気はないのかと。連絡くれたら迎えに行きましたよ」
なんで言わなかったんですか、と言う彼はほんの少し拗ねているようだった。
「……まあ、いいか」
「なんですか」
「お前には言わんよ」
彼のさらなる追及は、稽古が始まる合図に遮られた。彼女はこっそりほくそ笑んだ。彼女の目的は、ほぼ達成されたに等しかったからである。天才は往々にして飽き性で、悪戯好きでもあったのだった。
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