第4場 天才とアクアリウム

「これを読んでください」

「どうした、藪から棒に」

 いつもの喫茶店で俺は、一冊のノートを差し出した。

 今日も今日とて暑く、傍らにはアイスコーヒーがある。部では、役者勢が新たに入った一年生を指導している頃だろう。

 先輩はバニラアイスが二段ものったワッフルを食べ終えた。彼女の辞書に夏バテという言葉はないらしい。口元を拭いたあと、ぱらぱらノートを繰る。一番最初のページに来たところで、ぴたりと止まった。ふっと鼻で笑う。

「誰のか知らんが舞台を何だと思ってるんだ? お遊戯ごっこじゃないんだ。阿呆か」

 貸せ、と奪い取られたそれに、彼女はさらさらと赤ペンを入れていく。

「舞台は公園だ。これなら小物だけでいい。主演は二人。金のない男女がここで逢い引きする」

「逢い引きって古いですよ」

「うるさい。横文字は嫌いなんだ」

 そう吐き捨て、ページの余白に横長の長方形を描き出す。舞台のイメージ図だろう。先輩はなぜか絵も上手い。

「誰もいない夜の公園、二人は水族館や映画館を妄想して楽しむんだ。客席を水槽や画面に見立ててな」

 二人の男女、見立て。俺は思わず顔を赤くする。

「えっ、それ年齢制限はつきませんよね」

「馬鹿。お前は公衆の場でそういうことをするのか」

「しませんよ! バレたら捕まりますよ」

「バレなきゃって考えもどうかと思うがな」

 テーブルに肘をつき、先輩は深々とため息をついた。絶対馬鹿にされている。だが、俺はこれでも健全な男子高校生だ。そういうことに想像の羽が開いてしまうのは仕方ないことではないか。もちろんそれは架空の男女においての話だし、自分がどうする、とかいう話になると生々しすぎて吐きそうになるのだが。

「うえ」

「おいおい、やめろよ。吐くならトイレ行け」

 俺は手で口を押さえながら、先輩の指を見た。ペンだこになりかけている中指の第一関節と手入れのされていない爪、よく見るとうっすら生えている毛。色気のいの字も感じさせないそれを見ていると、だんだん吐き気が治まってきた。

「あ、もう大丈夫です」

「なんだよ。騒がしい奴だな」

 ほら水、と渡してくれる先輩は人並みに優しい。だが、この優しさは別に俺のためではない。ただ単に目の前で吐かれたくないだけなのだ。うっとうしそうな顔も隠そうとしない、その正直さにほっとする。この関係を恋と揶揄する奴らもいるが、俺は断じて恋ではないと信じている。

「何笑ってる」

「いや、なんでもないです」

「じゃあこれ、誰が書いた」

「後輩です」

 あ、と口に出してから気づく。しまった。言うつもりはなかったのに。ふうん、後輩な、後輩、と歌うように口ずさむ彼女は少し機嫌が悪そうだった。理由を話そうと口を開けば、すかさず制される。

「いい。わかってる。大方顧問が大衆受けしないとかなんとか言ったんだろ。私のは高校生向けではないしな」

「俺は先輩の脚本ホンの方が好きです」

「お前一人の舞台じゃないだろ」

 俺は何も返せなかった。確かに、舞台は観客のものだ。作り手がいくらこだわっても面白さが伝わらなければ意味がない。文化祭の客層は、有象無象の高校生たちが主だ。馬鹿でもわかる面白さを提供する必要がある。

「その点、こっちは筋が単純でわかりやすい。次の依頼はブラッシュアップか」

「……すみません」

「頭上げろ」

 恐る恐る先輩に目を向けると、腕組みしてじとりと俺を睨めつけていた。これは、相当怒っている。

「私が悲しむとでも思ったが。馬鹿言え、それはお前の方だろうが」

 ああ、俺はまた彼女のプライドを傷つけてしまった。同じ感情を持つ人間だと、つい錯覚してしまう。先輩は俺とは段違いの天才なのだ。それを忘れるなと彼女は言っている。

「付き合ってられないな。詳細はメールでいい」

 先輩はノートを摑み、足早に店を去った。ドアベルの音がむなしく響く。

 ぼうっとしている俺の前に、クリームソーダがでんと置かれた。いつもなら先輩の領分だが、今は甘いものが嬉しかった。注文票はいつの間にか消えていた。

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