第15場 天才は岬にて悟る
彼女は全速力で駆けた。武道館から出店の方へ、人混みの中に飛び込んで流れに乗って。朝、兄にとかしてもらった髪はもう、湿気と熱気でぐちゃぐちゃだ。同じくらい、彼女の心もこんがらがって、今までにないくらい混乱していた。
公演が終わり、後輩の顔でも見て帰ろうと彼女は出入り口の扉の陰にいた。そして、連れ立って歩く二人を見てしまったのだ。何の話をしていたのかは聞こえなかった。彼女にわかったのは、後輩を連れ出した女子生徒がすこぶる美人だったということだけだ。
いや、後輩に限って何かあるはずがない。軽いネタ話でさえ、げえげえと吐きそうな顔をしていたのだから。でも、まあ、後輩は健全な17歳、そういう相手ができてもおかしくない。おかしくはないのだ、と彼女は言い聞かせる。成長を嬉しく思う反面、一抹の寂しさが横切った。
人の流れはいつの間にか止まり、彼女はとある屋台の前に出た。色とりどりの菓子の包みが売られている。彼女の兄の琥珀糖だった。
「おや、君か」
「……一つくれ」
はいはい、と兄は彼女に包みを二つ手渡した。
「一つはおまけだから」
手をひらひらさせて笑う兄の顔は、いつもの彼女であれば苛立ちを湧き起こす。しかし今日は、ほんの少しの安堵をもたらした。
「……ありがと」
唇の先でぼそっと呟き、彼女は去る。後ろにはかなりの列ができていた。
とろとろと、今度は人波を避けて彼女は歩く。自然と足は体育館横の階段に向かっていた。一段足をかけて気づく。彼女の他に、誰かいる。
「先輩! もう帰ったかと思いました」
後輩だった。ズボンをはたいて彼は立ち上がる。
「お前、彼女はいいのか」
彼女が咄嗟に発した言葉に、後輩が固まる。予想外だと言わんばかりに口を開け、呆気にとられているようだ。
「は、え? 彼女って?」
「ほらさっきの」
「ああ、あれはただの生徒会長ですよ」
にこ、と彼は口元を引き上げる。珍しく笑顔だが、目は笑っていない。聞かないでくれという念が込められているような気がした。
「それ、琥珀糖ですか」
後輩が指さしたのは彼女の持つ包みだ。
「ああ。一つおまけしてもらった。食べるか?」
「はい。いただきます」
二人は別々の階段に座り、琥珀糖を頬張った。兄の作る、変わらぬ味。彼女も、一年前のあのときから何も変わっていない。ただ、書いては消しての繰り返しだ。彼女の書く脚本は上っ面のいい人間たちによって改変され、監督や演出家の色に染まる。彼女がプロなのは単に筆が速いからであって、彼女の脚本が評価されているわけではない。
彼女は斜め上に座る後輩に目をやる。琥珀糖をぼーっと眺めている彼は、これからいろんな人に評価されていくだろう。脚本に忠実であるという一点だけで。彼は、彼女の脚本に縛られすぎている。解放してやれたら彼はもっと自由になれる。
「なあ、お前はこれからどうするんだ?」
「俺は照明の補佐しなきゃいけないんで、体育館に缶詰です」
後輩にとっては今がすべてなのだろう。だが、いずれ考えるようになる。そのとき、彼は彼女なしの未来を選べるのだろうか。
雲が風に流され、少しの間太陽が顔を覗かせた。体育館の喧噪がどこか遠く聞こえる。日光に照らされた二人のいる場所は、外界から隔絶した岬のようだった。
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