第7場 凡才、ラブレターをもらう
ある朝、スリッパに履き替えた俺は、下駄箱の中に封筒が入れられていることに気づいた。宛名も差出人も書かれていない真っ白な封筒は、スリッパに踏みつけられて灰色のマーブル模様がついていた。埃を払いながら教室へと向かう。
一体、これは何だ?
俺は怪しみながらも、差出人を確かめるべく蛍光灯に透かしてみた。そこには、あの、水族館を舞台にした
そこからは早回しのように授業と休憩が繰り返され、いつの間にやら放課後だ。もう大方のクラスメイトが部活に行き、残っているのはサボりたい奴か、帰宅部の奴か、日直くらいだった。俺は部活に行く気分になれず、朝の封筒のことを考えていた。
「ねえ、返事は? した?」
「何の?」
「あのラブレターの!」
がたん。俺は思わず机を蹴ってしまった。視線を感じて、いそいそと帰宅準備をする。
いやいやいや。あり得ない。
そしてなぜだが先輩にメールを送ってしまった。『家に来い』との文言が返ってくる。先輩の家に行ったことは数回しかない。喫茶店ではないことにほっとしつつも、若干の緊張も感じる。怒らせたことを根に持っているだろうか。
「おう、入れ」
迎えてくれた先輩は通常運転だった。眉は寄っているが、怒ってはなさそうだ。俺は肩をなで下ろしながら、先輩のあとをついていく。
「やあ、いらっしゃい」
相変わらずうさんくさい笑みを浮かべる先輩の兄が、台所から顔を出した。
「お邪魔します」
リビングに鞄を下ろし、俺はさっそく封筒を見せる。先輩はしばらく眺めたり透かしたりして、
「写真撮っていいか?」
と言い出した。絶対資料にするつもりだ。
「駄目です。記憶するだけにしてください」
「ケチだな」
ケチなのは先輩だ、と言おうとして口をつぐむ。先輩の兄が手にお盆を持ってきたからだ。
「これは俺が作ったんだ。よかったら食べて」
「ありがとうございます」
水色の光を通す不思議な欠片は、琥珀糖というらしい。ぱくりと口に含んで、その甘さに思う。紅茶があってよかった。
なにやら小突き合っている二人を横目に、俺はそっと封筒を開けた。入っていたのは便箋が一枚。そこには、危惧したような文言はなく、去年の文化祭で見た演劇について書かれていた。初めて読んだ先輩の
「なんだ、先輩へのラブレターじゃないですか」
俺は息を大きく吸う。打ちのめされた当時の感情ごと思い出して、必死に留めた。テーブルに手紙をすべらせ、二人が読みやすいように置いた。
「……いや、お前にだろ」
「これは……
「何をどう読んだらそうなるんです? 実際俺はこのとき何もしてないし」
手紙を指し示しながら、俺は二人に聞いた。
「お前結構口出ししてたよな」
「忠くんらしい劇だったよ」
この兄妹はあまり意見が合わない、と俺は認識していた。喧嘩をするほどではないが、映画や喫茶店の好みの違いで言い合っているのを見たことがある。性格もまったく異なる二人が口裏を合わせているとは思えない。だが同時に、二人の口から俺の褒め言葉のようなものが出るのも信じられなかった。
「俺は先輩と違って出来の悪い奴なんです」
「うん。私もそう思う」先輩はそう言いながら手紙を封筒にしまった。「でも、こいつはお前に渡したかったんだろ。それは素直に受け取っておけ」
目の前に差し出された封筒を、俺は受け取る。天才の先輩がそうと決めたならそうなのだ。俺がどう思おうと逆らえるはずがなかった。
「ついでにこれも持っていけ」
帰り際、先輩が鞄に入れたのは直しの終わった脚本だった。
「まだ締切まで期間ありますけど」
「早く終わったんだ」
びっちり赤の入ったそれを見て、俺はふと思った。
「これって、先輩の脚本ってことにしちゃ駄目ですかね」
「阿呆かお前は。原作者をないがしろにしてどうする」
私を神格化するのもたいがいにしろよ、と彼女は言った。俺はその言葉の意味を反芻しながら帰路につく。ベッドに入るまで考えていたが、結局よくわからないままだった。
先輩は俺にとって、唯一無二の天才であることに変わりはなかったから。
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