第19場 天才はトマト嫌い
夏休みというものは始まってしまえばあっという間で、八月も半ばにさしかかっている。彼女は車に揺られて三時間、小さな港町の祖父母の家へ家族共々やってきていた。毎年恒例になっている家族の行事だ。
墓参りを終えたあと、彼女は眼下に広がる海を見つめた。もう、あまり見られないかもしれない風景を目に焼き付けるように。
「ずいぶんと黄昏れてるじゃないか」
彼女に声をかけたのは兄だった。桶を右手に提げ、左手の柄杓をぷらぷら揺らしている。頭上ではニイニイゼミが慎ましく鳴いていた。
「そんな風に見えるか?」
「見えるよ。感情って結構顔に出るからね」
「……そうか」
兄が適当なことを言っているのはわかっていたが、彼女は反論しない。かすかに漂ってくる潮の香りを味わうことに集中していたからだ。
「あとで海見に行く?」
「いや、近くには寄りたくない」
彼女は眉をひそめる。昔、ころころした子どもだった彼女は一度波にさらわれかけたことがあった。あれ以来、浜には近づかないようにしていた。海は遠目に眺めるだけで十分だ。
「もう海、見れないかもしれないよ」
「東京にも海はある」
「あの海とこの海は別じゃない?」
「海は海だろ」
遠く離れた父母が、兄と彼女を呼んだ。二人は無言で丘を降り、祖父母の家への道を歩む。木陰があるとはいえ、日差しは強い。彼女は借りた麦わら帽子を両手で摑み、落ちている枝を蹴った。兄がさらに遠くへ蹴る。顔を上げた彼女はにやりと笑い、枝まで走って蹴り飛ばした。
「あ」
勢いよく車道に出た枝は、通りかかった軽トラックによって潰されてしまった。兄と彼女は思わず顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。夕日に照らされた影が細く伸びていた。
祖父母の家に帰ると、夕食が用意されていた。ツナとトマトのそうめんだ。彼女はう、と声を漏らした。彼女は大のトマト嫌いだった。父も母も無言で、彼女を見つめている。
今朝もいだんだ、と祖父が自慢気に言った。
兄が声をかけようとしたとき、彼女は箸を動かした。8等分されたトマトをぱくりと口に入れる。しばらく口を動かしていたが、そのままごくりと飲み込んだ。
「……うまい」
「そうだろうそうだろう! たくさん食べな」
彼女がトマトを食べた。18年の間、かたくなに避けてきたあのトマトを。家族全員が信じられないという顔で彼女を見つめる。
「何かついてるか?」
「急にどうしたの、食べれるなら言っておいてちょうだい」
「あんなに母さんを困らせてたのになあ」
口々に言われている間も、彼女はもくもくとそうめんを咀嚼する。
「東京に行くんだろう? 好き嫌いがなくなってよかったじゃない」祖母がにこにこと嬉しそうに言う。「向こうでもたくさん食べるんだよ」
彼女はこくりと小さく頷き、最後の一口を食べ終えた。帰り際、たくさんのトマトが入った袋をもらったのは言うまでもない。
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