第18場 凡才と蚊取り線香の思い出
「ただいま」
「おかえり」
夏休み、毎日部活から帰る俺を父が出迎える。どういう仕事をしているのかは知らないが、家にいる時間がどんどん長くなっているような気がする。
「夕食の仕上げをするから着替えておいで」
料理雑誌を置いて、父は台所に向かう。間もなく、トマトソースの香りが漂ってきた。今日はラタトゥイユみたいだ。俺は部屋に荷物を降ろし、汗染みのついた制服を脱ぐ。
母がいたときから、父は家事が好きだった。掃除も率先してやっていたし、休日に作ってくれたパスタは母が作るより美味しかった。反対に仕事に関しては欲がなかったようで、母がよくなじっていた。
夏になると思い出す。母と父と三人で、公園に花火をしに行ったこと。蚊取り線香を持って行こうと言った父の言葉を無視した結果、半ズボンの俺はたくさんの虫刺され跡をつけて帰ってきた。あの頃はもう、母の気持ちは父から離れていたのだろう。あれが最後の思い出になってしまった。
リビングに戻ると、テーブルには食事がきれいに並べられていた。予想通り、ラタトゥイユだった。ご飯の代わりにそうめんが置かれている。
「さあ、食べよう」
いただきます、と手を合わせ、俺と父は黙々と食事をする。
「部活はどうだい」
「ん、まあまあかな」
会話といえばそれくらいだが、別に居心地は悪くない。母がいた頃より、父の表情がずっと穏やかだからだろうか。
「そういえば、進路についてだけど」
「うん」
俺はどきりとして箸を止めた。三者面談でいきなり「東京に行きたい」と言ったとき、うろたえる担任をよそに父の表情は変わらなかった。ただ、「考えさせてほしい」と言ってしばらく考え込んでいた。
「進学はできると思う。でも、生活費はごめん。仕送りはできない」
「うん。わかってる……え?」
俺はてっきり反対されると思って覚悟を決めていた。だから、父の答えは意外だった。
「進学の費用は出してくれるってこと?」
「うん。そっちは問題ないよ。慰謝料を少し運用しててね。留学もできるくらいには貯まってるから」
「そう、なんだ」
俺はなんだか複雑な気持ちになった。生活に余裕がないと勝手に思っていた自分が恥ずかしい。確かに何をやっても否定されることはなかったし、誕生日とクリスマスの2回は必ずプレゼントをくれるし、高校に入ってお小遣いも増えた。
父も父なりに努力しているのだ。それがわからなかった母は男を作って出ていってしまった。俺も理解していなかったという点では、母と似たようなものだ。俺は父の顔が見れず、下を向いたままそうめんを啜る。
「バイトはするつもりだったし、大丈夫」
「……ごめんな、
「別に、父さんは悪くないだろ」
父はどんなときも母の悪口は言わなかった。愚痴さえも、もらしたことはない。でも、俺は母が全面的に悪いと思っている。これは子どもである俺の主観だ。
「今日は俺が洗うよ」
「ありがとう」
「いや、それはこっちのセリフだって」
父子二人の夜は静かに更けていく。ベランダに置いてある蚊取り線香の匂いがうっすらと漂っていた。
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