第17場 天才と凡才の半年後

 彼女の元にその依頼が舞い込んできたのは一週間前のことだった。夕食をすませて開いたPCに一通のメールが届いていた。差出人は演劇界で知らない者はいない、有名な劇団だ。直接的には面識はないが、依頼人の一人が演出家と知り合いだと言っていた。依頼自体はごく普通のもので、彼女に脚本を書き下ろしてもらいたいという内容だった。締切にはかなり余裕があり、彼女は二つ返事で引き受けた。

 彼女にとっては数ヵ月に一度の登校日である試験期間。その一日目に事態は動いた。午前中の試験を受け終えて、帰りの電車を待っているときに電話がかかってきたのだ。劇団の知り合いだと言っていた依頼主からで、例の演出家が話したいということだった。とんとん拍子に話が進み、会議は試験期間に挟まれた週末に組まれた。

 端的に言えば、彼女は気に入られたのだ。どういうわけだかわからないが、脚本は読んだと聞いている。その人は彼女のことを天才と称した。若干世辞は入っているような気がしたが、大人に面と向かって言われたのは初めてだった。そこで、東京に出ないかと誘いを受けたのだ。彼と離れるいい機会だと思った。


 ◆◆◆


 彼は熱心に本を繰り始めた。後輩のことだから、東京という言葉に惑わされているのだろう。来たければ来ればいい、と思う。ここにいるよりは百倍ましだろう。使い捨てられても道はたくさんある場所だ。ただ、彼女は助けてやらないつもりだった。今までと同じように無報酬で協力することはしない。

「一月になったら引っ越し先を探す予定だ」彼女は少し皺のついた進路希望調査票をひらりと裏返した。「お前がどうしたいのかはその前に聞こう。半年後、だな」

 壁に掛かった時計の針がかちかちと音を立てて進んでいく。彼女は席を立ち、調査票を後輩の机に置いた。彼が顔を上げる前に「なるには」シリーズを抱えて本棚の前でしゃがむ。

「……遠い話、ですね」

「何、半年なんてあっという間だぞ。あれからもう一年だ」

 一年、と後輩の声。彼女はあと一年も経たずに卒業し、二年も経たずに後輩も卒業を迎える。短い学生生活だ。すでに生計を立てている彼女の方は、もう終わった気分でいるのだが。

 ことん、ことん、と本を戻し続ける。無心でできるこの作業が、彼女は嫌いではない。図書室に来れるのも、あと数回と思うと少し寂しい気持ちになる。30分に一度の電車も、ラブホテルのどぎついピンク色も、川面に映る夕日も、懐かしく思う日が来るのだろう。

「締切は三日後だったな。また、喫茶店で」

 本をすべてしまい終えると、彼女は軽そうな鞄を持ち、図書室を出た。どこからか聞こえてくる蝉の声に、彼女はふと思う。一週間の寿命の限り鳴く蝉と、三年しかない青春を謳歌しようとする高校生はよく似ている。

 照りつける日差しが眩しく、彼女は目を細めた。夏はまだ始まったばかりだというのに、終わりが来ないことを願ってしまった。

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