第22場 天才は雨女

 闇の中、シャワーのような雨が窓に打ちつけて、ばらばらと音を立てている。お盆の最終日、台風がやってきては雨風をばらまいている真っ最中だ。彼女は憂鬱そうに机に肘をつき、物思いにふけっていた。がたがたと風が窓を揺らしている。

 後輩は今、東京にいるという。東の空は晴れているだろう。彼女は未だに迷っていた。周りには言って回っているが、オファーは保留のままだ。脚本家としての人生を考えれば、断る理由はない。しかし、このまま脚本家として生きていけるのかという疑念も彼女の胸に渦巻いている。

 脚本は、加工されて舞台になる。観客は加工されたものしか見ない。その仕組みは理解しているのだが、加工の仕方によってがらりと変わってしまう脚本が哀れに思うことは確かだ。

 彼女は頭を抱え、うーむと唸る。唸っているうちに彼女の瞼は下がっていき、やがて声は寝息に変わった。

 彼女が目を覚ましたとき、もう夜は深くなっていた。夕食を食べ逃したお腹がぐるぐると鳴る。彼女は重い頭をゆっくり起こし、よろよろと1階に続く階段を下る。下りきったところで、玄関の扉が開いた。風に乗って雨が入り込んでくる。彼女が凝視していると、合羽を着た彼女の兄がずぶ濡れになって帰ってきた。

「お疲れ」

「ああ、君か」

 扉は閉まり、嵐の音は遠くなる。兄は合羽を脱いで干し、靴箱の上に置かれたタオルで身体を拭いた。

「バイトか」

「うん。いやあ、すごい雨だったよ」

 彼女が冷蔵庫を開けると、二人分の夕食が用意されていた。レンジで温め、テーブルに置く。黙々と食べる彼女の前に、着替えた兄がやってきた。

「締切が近いの?」

「いや、寝てた」

 向かいに座った兄も食事を始める。

「珍しいね」

「今、後輩は東京にいるらしい」

「ああ、忠くん」

 兄は味噌汁をずずっと啜って、ふと首を傾げる。

「君も東京に行きたかったの?」

「……いや」

「じゃあ、別れるのが寂しい」

「違う」

「うーん、本当は東京に行きたくない、とか」

 彼女は黙って白米を頬張る。

「なるほど、そういうことか」

「……何だ」

「君、最近仕事減らしてるでしょ」

 これまた彼女は黙り込み、ひじきの煮物をかきこんだ。

「あんなに浮かれてた君がねえ」

「……そんなにだったか?」

「うん。家中飛び跳ね回ってた」

「噓つけ」

 軽口を叩きながら、ごはんはみるみる減っていく。

「兄貴は悩まなかったのか」

「ん、進路? まあねえ」兄は口の中身を空にして続けた。「俺はほら、できることが少なかったから。したいこともそんなになかったし」

「成績は私よりよかっただろ」

「うーん、でも勉強は好きじゃなかったから」

 にっこり笑う兄の潔さにはかなわない。彼女は口をへの字にしてじとっと兄を見つめる。

「何その顔。その点、君は勉強熱心だからできることが多いんだろうね。うらやましいよ」

「……私にも、できないことぐらいある」

 二人は同時に箸を置いて手を合わせる。皿はすべて空っぽだ。

「それ、やってないだけじゃない? 君にできないことなんてそうそうないと思うけど」

 兄の言葉に、彼女は目を見開いた。固まる彼女を置いて、兄は皿を片付けていく。台所から水の流れる音がし始めた。

 彼女はしばらく椅子に座っていたかと思うと勢いよく立ち上がり、階段を駆け上がる。あまりの足音に母が寝室から顔を出した。

「……君ちゃん?」

 彼女は部屋の窓を開け、ベランダに出た。強い雨を全身に浴びながら思う。天才にやってできないことはない。なら、全部やってしまえばいい。さっき悩んでいたことが噓のように、濡れた彼女の口からは晴れやかな笑いが漏れ出した。

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