第3場 凡才、飛ぶ
黒い丸い頭が右へ左へ振れるのを、彼女はじっと見つめる。曲がった背中は微動だにせず、紙の端にかけた指と眼が忙しなく紙上を行き来している。
と、彼は鞄からノートと筆記具を取り出し、パラパラ紙をめくりながら書いては線を引き、書いたと思えば引いた線ごと丸をつけ、なにやら唸っている。口の中で何やら言いながら、シャーペンの頭をテーブルにとんとんと当てた。
彼は今、白紙のページに舞台を見ている。そこにある理想を表現するための要素を、頭から取り出している最中にある。彼女がとっくに食べ終えたプリントップを下げに来た店員にブルーベリーワッフルを注文するのも聞こえていない。
スイーツが来るまで手持ち無沙汰になった彼女は、組んだ両足をぶらぶら揺らした。
彼には、才能がない。テストの点数はそこそこだが、それなりに勉強しないと維持できない。運動のセンスはない。文字も汚いし、何かを創造する力もない。絵に描いたような凡人だ。
だが、彼は他にないものを持っている。彼女の書いた作品を目に見えるものにしたい、という欲求。それだけは人並み以上、いや、狂気的なほどだった。他人の作品にここまで執着する心情を彼女には理解できなかったが、この狂気がなくなるのはつまらないと思う。彼の原動力は、この狂気によるものだからだ。
彼女が書き続けているのも、彼が理由だ。彼女は極度の飽き性だった。今もまた、待つのに飽きて彼の消しゴムを立てては倒して遊んでいる。つまらなそうに息をついたあと、ついに彼女は消しゴムを彼の方に弾き飛ばした。
「……消しゴム」
とっさに彼はそれを摑み取る。目を幾度も瞬き、ようやく現実に焦点が当たったようだった。
「飛んでた?」
「あ、すみません」
顔を上げた彼に彼女は、指をぴしりと向けた。
「私が殺し屋だったらお前、死んでたぞ」
「先輩は脚本家でしょう」
「で? できそう?」
彼女の指は下がり、彼が読み終えたばかりの脚本に向けられている。
「やります」
いつもは伏せられている瞳がぎょろりと上向く。彼にとって、できるできないは問題ではない。やると決めたらやる。彼の決意は絶対だった。
「ああそう。舞台はどこなの」
「学校です」
「あら、なんかイベントでも?」
その言葉に彼は、知らないのかと言わんばかりに肩をすくめた。
「文化祭ですよ。毎年六月にやってる」
「そんなものもあったね」
「あったねじゃないでしょうが。今度こそ練習、来てもらいますからね」
「ええ~めんどくさい。暑い。制服ない」
彼女は3本指を立てて理由を並べた。今日も歴代4月の最高気温を記録した日で、道行く人は日傘を差したり汗を拭いたり、すっかり初夏の様相だ。最後の一言に彼は眉を上げる。
「去年の制服あるでしょう」
「消えた」
彼女は興味なさげに窓の外に目をやり、耳元の髪をぐるぐると指に巻き付けている。
「俺、探しに行きましょうか」
ついでに掃除も、と聞いた途端、彼女の眉間の幅が縮まった。しっしと後輩をハエのごとく追い払う仕草をする。
「いらんいらん。余計なお世話だ。第一学校なんて行く奴の気が知れんぜ」
「はいはい、どうせ俺はつまらない人間ですよ」
「よくわかってるじゃないか」
運ばれてきたワッフルに居住まいを正し、彼女はさっそくナイフを入れる。彼のことは認めている。だがそれは、演出家としての腕という一点のみに限られていた。だから私生活をとやかく言われる筋合いはないし、彼以外の人間に会うために学校に行くなど無駄な行動はしたくない。彼女には彼女の理念があるのだった。
「でも……」
「なんだ、お前は私がいないと得意の演出もできなくなったのか」
「そうです」彼はまっすぐ彼女の顔を見る。「と、言ったらどうします?」
「フン、気味が悪いな。学校には行かないよ」
「学校以外ならいいってことっすね。わかりました」
筆記具を片付ける彼の手。それより先に、彼女は自分の脚本を両手で押さえた。
「ちまちまと揚げ足を取るんじゃない。これがどうなってもいいのか?」
「天才と渡り合うためには必要なことです」
無表情の彼は瞳で訴える。このまま射抜き殺すこともできそうなくらい、その視線は動かない。根性勝負ではいつも彼女が降参する。
「……わかった。行けばいいんだろ、行けば」
「先輩ならそう言ってくれると思いましたよ」
さっきの仏頂面はどこへやら、にっこり笑って彼は去る。テーブルに残ったのはブルーベリーワッフルとくしゃくしゃの二千円札だけ。
「あいつ……」
彼女は追加できた注文票を片手に、ポケットの小銭を数え始めた。
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