第5場 天才に贈る琥珀糖
とある四月の昼下がり。住宅地の一角に甘い香りが漂い始める。開け放たれた窓からは、調子っ外れの鼻歌が聞こえてくることだろう。その家の台所で、一人の青年が鍋をかき混ぜている。
二階の部屋で転がっていた彼女の鼻にも、甘い香りがふよふよと流れてきた。脚本に赤を入れていたはずが、鼻のひくつきが忙しなく、ついには立ち上がって階段を下りていった。彼女は甘いものに弱い。お菓子作りが始まると、こうして作業を中断することがよくあった。
彼女の兄は製菓学校の学生である。高校生だった頃は夜中にしばしば作業をしていたが、最近は白昼堂々作るようになった。リビングから台所を覗いた彼女は、兄がパッドに何かを流し込んでいるのを見た。
「なにそれ」
「これは砂糖とゼラチンと水を煮込んだものだよ」
「ふうん」
すべて流し入れたあと、兄の手は食紅の瓶に伸びた。赤と青を組み合わせ、毒のような見た目の色をパッドに加える。すると、パッドの中が透明度の高い薄紫色に染まっていく。ぼうっと一連の作業を眺めていた彼女に、兄が言った。
「なんだか元気がないね。友達と喧嘩でもした?」
「……喧嘩じゃないし、あいつは友達じゃない」
「そうかいそうかい。あ、いいものをやろう」
兄はパッドをラップで包み、冷蔵庫を開けた。タッパーを取り出し、キッチンカウンターの上に置く。そこには水色の欠片が入っていた。
「はい。食べてみな」
彼女は手に載せられたそれをじっと見る。ほんのり甘い香りがした。窓にかざすと、日の光を吸収し、周囲にきらきら光を拡散する。
「これは?」
「琥珀糖だよ。さっき作ってたものの完成形」
あれがこうなるのか、と呟いて、彼女はぱくりと口の中に放り込む。しゃりっとした固さの中にゼリーのような柔らかさをはらんでいる。想像していたよりもずっともろい、日常のような食感。
「おいしい?」
彼女は口の中の甘さに浸っていたくて、首を小さく縦に振った。
「よかったよかった。これ、君の高校の文化祭で出そうと思ってるんだ。まだ試作中だけどね」
にこっと笑う兄の顔に、彼女の背筋がぞぞぞ、と冷える。
「それ。その呼び方やめてくれ」
「え? 君子の君ってずっとみんな呼んでるじゃない」
「兄貴が言うとキザったらしくて聞いてらんないんだよ」
うへえ、と言いながら彼女はカウンターから離れた。嫌な言葉を聞いて若干後悔の念が浮き上がってきていた。
「そうなの? 知らなかったなあ」兄は一瞬きょとんとしたものの、大して気にしていないようで「これ、よかったら持って行きなさい。仲直りの印にするといい」
と、タッパーを差し出してきた。
「だから喧嘩じゃないってば」
「はいはい」
彼女の主張はするりとかわされ、兄はパッドを手に冷蔵庫の扉を開ける。彼女はくるりと向き直り、その開いた扉を後ろから摑んだ。
「それ」
「ん? これ?」
兄がパッドを持ち上げる。肯定の頷きを返し、彼女は言った。
「いつできあがるの」
「うーん、一週間くらいかな」
「じゃあ、そっちをもらう」
冷蔵庫がピーピーと鳴り出した。兄は強情だね、と言って眉を下げた。
「いいよ。だから早く冷蔵庫閉めて」
「はいはい」
冷蔵庫は職務に戻り、彼女も自室へ戻った。一週間後が、後輩の指定した締切日だった。
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