第10場 天才の前に散った
彼女はそのとき締切に追われていた。三ツ木が5パターンはほしいなどとのたまったせいだ。人のいない階段で作業をしていたものの、強風ですべてが吹き飛んだ。思わず叫んだ先にいたのが、彼だった。
丈と袖が余っている制服、ぴかぴかのスリッパ。せっせと拾い集める姿から後輩だろうと見てとった。時折メモを読んでは目を丸くし、瞬きもせずに見入っていた。
「お前があれか、
階段を下り、彼女は声をかける。しかし、彼はうんともすんとも言わず、メモを拾っては読んでいる。
「おいお前、聞いてるのか」
緩く肩を小突けば、ようやく彼女の方を向いた。ぱちぱちと瞬きして目の焦点を合わせている。
「……えっと、副部長さん、ですか」
「肩書きで呼ぶな。月森君子だ」
月森先輩、と彼は小声で呟く。
「なんだ」
「先輩の
「持ってるだろ」
彼女は彼の腕を指さす。一度落ちた紙たちは皺がつき、よれていたものの濡れてはいない。
「いや、あの……完成してるのが読みたいんですけど」
「締切までは完成しない」
「じゃあ、締切はいつです?」
明日だ、と彼女はため息を吐き出す。すると後輩は、「明日また来ます!」と目をきらきらさせて言った。そして、本当に来た。
「先輩! 脚本は……」
「ああ、これな」
雲一つない空から降り注ぐ日光が容赦なく階段を照らす。階段に腰掛けた彼女は目をこすりながら、5つの束を見せた。後輩がひったくっていくのに任せ、膝に顔を埋める。彼女の意識はすぐに夢の世界へと飛んだ。
彼女が顔を起こすと、客が増えていた。三ツ木だ。階段に座り込み、後輩と二人で何やら話している。
「絶対にこっちがいいですよ」
「それだと舞台映えしないからな。文化祭ではこれだろう」
「そっちは受けを狙いすぎてます。俺はこっちでも映えさせられます」
そうは言ってもな、と言う三ツ木は途方に暮れているようだった。押しの強い三ツ木以上に、後輩の意志が強い。ぎらぎらとした炎が瞳の奥に見えるようだ。彼女の唇が弧を描く。
「なあ、こいつにやらせてみたら」
「月森。起きてたのか」
振り向いた三ツ木に彼女は肩をすくめて答える。
「たった今な」
「本気で言ってるのか。こいつ素人だぞ」
「お前の演出は舞台に立ってるときの数倍つまらないからな。こいつの方が面白そうだ」
む、と顔をしかめる三ツ木に反し、後輩は顔も上げずに脚本をめくっている。その耳には二人の会話は聞こえていないようだ。異常なほどの集中力と脚本を読み取って舞台へと膨らませる想像力を持ち得る存在。
彼女はこのとき確信した。彼自身に才はない。が、才を人に知らしめることに賭けてはそこらの人間に勝ると。
「私はこいつの舞台が見てみたい」
三ツ木は大きなため息をついた。
「お前が言うなら仕方ない。ひとまず演出補佐に入ってもらおう」
「元部長は引退しないんですかあ」
「やかましいな。俺はもう進学先決まってんだ」
そうして迎えた文化祭では、後輩の演出が大成功したのは言うまでもない。
◆◆◆
少しだけ雨脚が弱まってきた。後輩はじっと黙って足元を見つめている。彼女はからからと乾いた笑い声を上げた。
「それにしてもお前、あの三ツ木にあんな顔をさせておいて「何もしてない」はないだろうよ」
「……俺、そんなにすごいことしたんですか」
「したした。あれは私にはできないね」
人のこと考えるの苦手だし、と彼女は付け加える。才があればあるほど、興味がある物事に対しては深く没入できる。だからこそ、興味の範囲外に関しては驚くほど目を配らない。世界に自分以外の人間がいるということもたまに忘れている。三ツ木も君も生活力皆無だよね、と言っていたのも思い出す。すべては彼女の兄の受け売りである。
「私が認めてんだから、そこは誇っていいんだぞ」
「そう、ですね」
後輩の答えは歯切れが悪い。ぽたぽたと庇から雨粒が落ちてくる。じきに雨は止みそうだ。昔話は終わり、灰色の雲は散った。二人はそれぞれの目的地に向かって歩き出す。別れの言葉はなかった。
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