おやすみ、よい夢を


 星たちの囁きが聞こえてきそうな、静かな夜のこと。


「何をしている」

 ランプの灯に照らし出されたまま立ちすくむ娘さんに、黒髪の騎士は呆れた表情を浮かべました。

 夜陰に乗じ、砦を襲った魔物たちへの応戦に奔走させられた当直ののち。

 後始末はいいからおぬしは休めと仲間たちによって詰所に放り込まれ、泥のごとくまとわりつく疲れに引きずられるまま、昼じゅう眠ってしまったことがよくなかったのでしょう。

 どうにも寝つけず、葡萄酒でも分けてもらおうと厨房へと赴いたのですが――回廊にさしかかるなり、騎士は目の前を横切る影に歩みを止めました。

 生き残りか。

 考えるよりも先に、剣の柄へと手が伸びます。一か、複数かとあたりを探る男を思わず拍子抜けさせたのは、いやというほどに聞き慣れた足音でした。

 気配を殺すことなどまるで考えていないのんきな歩調に、眩暈を覚えた騎士が誰何の声をあげ――ひゃあと驚く相手に向かってランプを掲げてみせたというわけです。

「もう、驚かせないでください」

 安堵の表情をみせた娘さんへ、いま何刻だと思っていると黒髪の騎士は苦い顔をみせました。

「若い娘が、ひとりでふらふらと出歩くような時間か」

「だって、眠れないんですもの」

 娘さんのことばに、黒髪の騎士は喉元まで出かかったお説教を飲みこみました。

 寝相と寝起きの悪さは折り紙つき、されど寝つきの良さだけは定評のあるこの娘がか。そう思いかけ、黒髪の騎士はふと娘さんの様子に気がつきました。

「ノリスさんのところで、暖かいものをもらってこようと思って」

 素朴な肩かけを、ヴェールのように頭からすっぽりとかぶった姿は、なぜか彼に顔を見られまいとしているかのよう。ふだんと変わらぬ明るい声が、ほんのわずかに揺らいでいることを騎士の耳はとらえていました。

「行くぞ」

 けれども、そんな娘さんを詮索することはなく、黒髪の騎士は厨房のほうへと歩み始めます。

「おぬしひとりでは、またつまみ食いと勘違いされるだろう」

「ギルバート」

 何かご用があったんじゃと、先ゆく騎士を慌てて追いかけながら問う娘さんに、行き先は同じだと答えた黒髪の騎士の表情がちょっぴり真剣味を帯びました。

「だが、俺まで同類と思われるのはごめん蒙る」



             ◆ ◆ ◆



「すてき」

 南の城壁塔のてっぺん、石畳にぺたりと座り込み、夜空にまたたく星たちを見あげた娘さんが歓声を上げました。

「<麦穂星>に<真珠>、<天の河>。ええとそれから」

「<狼の眼>」

 娘さんからやや離れたところに腰を下ろし、東の空に冴えた輝きを放つひとつ星の名を呟いた騎士が手にしているのは、スパイスを入れて温めた葡萄酒の杯でした。

 こんな夜中にと、不機嫌そうな顔で扉を開けた料理人にそろって事情を説明し、やっとのことで分けてもらった飲み物を口にして、黒髪の騎士はほっと一息つきました。

 北に高い山を臨み、あたりを深い森と湖に囲まれた東の地は、短い夏が過ぎると急に朝晩の冷えこみが厳しくなります。そんなところだけはエクセターによく似ているなと、故郷の丘とそこに実る豊かな恵みへとおもいを馳せたとき、

「わたしも、葡萄酒がよかったのに」

 騎士の隣に腰を下ろし、ちょっぴり不服そうな表情をみせた娘さんが両手で包みこんでいるのは、ふたのついた杯でした。

 はなしを聞いた料理人が、最初に温かい杯を騎士に差し出しました。たちのぼるスパイスのこころよい香りに、わたしにもくださいとお願いをした娘さんでしたが、すげなく却下されてしまいました。その代わりにと黒髪の騎士が料理人に頼んだものが、この飲み物だったというわけです。

 しばらくこのままでという言いつけを守って、城壁塔の上に赴くあいだ杯のふたをしっかりと押さえていた娘さんでしたが、いったい何のためにとさっきからずっと首をかしげてばかりです。

 すると。

「ふたを取れ」

 騎士のことばに、素焼きのふたをそっと取りのぞいた娘さんが目を丸くしました。

「これ、何ですか」

 表面に小さな白い花をひとつ浮かべた飲み物は、どう見ても温めた牛乳でした。あたりにただよう、りんごを思わせるほのかな甘い香りに不思議そうな顔をする娘さんに、

「カモミールだ」

 短いこたえとともに、騎士は葡萄酒の杯を傾けました。つられて自分の杯を口にした娘さんが表情をなごませるさまが、かそけきともしびにやわらかく浮かび上がります。

「おばあちゃんがよくお茶を作ってくれたけれど、こんなのははじめて」

 一口飲めば、あとは早いもの。たちまち杯を空けた娘さんの微笑みが思いのほか間近にあることに気がついて、黒髪の騎士はできるだけそちらのほうを見ないようにしてことばを続けました。

「むかしはよく飲まされた」

 寝つきの悪い子供をおとなしくさせるにはちょうどいいらしいと話した騎士に、娘さんが頬をふくらませました。

「わたし、子供じゃありません」

「なら、泣き虫の小娘か」

「ギルバート」

 知っていたんですかと問いかけるようなまなざしに、空になった葡萄酒の杯を床に置いて騎士は娘さんのほうへと向きました。

「思い出したのだろう」

 淡々とした問いに、笑おうとして失敗した娘さんが、ちょっとだけと呟くなり慌てて目元をぬぐいました。


 眠れないというのは、半分は嘘。

 騎士が誰何の声を上げたとき、わずかの間ランプの灯に照らし出され、すぐに隠された泣きはらした目は、のどかな故郷と家族のあたたかい笑顔を夢に見ていたのでしょう。

 けれど目覚めてみれば、それがもうどこにもないという悲しい現実に、皆が寝静まるなかでひとりこころを震わせていたのでしょう。

 もし眠れば、また同じ夢を見るかもしれない。そう思うといたたまれなくなった娘さんは、ひとり夜の回廊へとさまよいだしたというわけです。


「聖女は泣いたりしないものだって、誰かが言っていましたけれど」

 わたしは違うのにと、頼りなげに呟いた娘さんの横顔に、

「おぬしのどこが聖女だ」

 思わず発したことばに、涙に潤んだ緑の瞳が見開かれました。

 剣抱く乙女が砦にあれば、何の憂いもあるまいぞ。

 ひたむきで、素朴なおもいから発せられたであろう誰かのことば。けれどもそれこそが、娘さんを<髪あかきダウフト>の偶像から決して解き放とうとはしないことを、騎士はよく知っていました。

 鎖かたびらに身を包み、旗じるしを掲げていくさ場に赴く輝かしい姿ばかりを見る者たちは、その影で魔物が穿った傷の痛みに涙をこらえ、いくさに荒れ果てた家や畑に怯えきった人々のまなざしを前に、否応なく故郷の最期を思い出さねばならない村娘のことなど、決して知ろうともしないのでしょう。

「ただのダウフトだ」

 見つかれば芋と玉ねぎの山に引きずって行かれると知りながら、つまみ食いと子供じみたいたずらをやめようともせず。聖女さまというよりは、なんだかうちの娘を、妹を、帰りを待ってくれているあの子を思い出すんですよと皆の笑みを誘い。小さな村にふらりとやって来た、どこの誰とも知れぬ騎士に臆することもなく、旅のはなしをせがんだお下げ髪の村娘だったころと、どこが違うというのでしょう。

「いつも自分でそう言って――」

 続けようとした黒髪の騎士へ、いきなり娘さんがすがりつきました。しっとりとやわらかい重みと、鼻をくすぐる甘い香りにしばし呆気にとられていた男は、我に返るなり慌てて引き離そうとしたのですが、

「ギルバート」

 彼の服をぎゅっと掴んだまま、涙声で呟いた娘さんにつれない仕打ちなどできようはずもなく。

 天を仰ぎ、しばらく何やらぶつくさと呟いて。それから、まるで壊れ物か何かでもあるかのように、騎士はそっと娘さんを抱きしめました。

 たしかキャスリンがぐずったときにも、こうしてやったな。

 泣きじゃくる娘さんの背を軽く叩いてやりながら、黒髪の騎士は空の杯にぽつんと残るカモミールを見やります。

 まだ彼が、わがまま侯子よりも幼かったころのこと。

 お化けが出たのと、枕を抱えて泣きながら訴えた末の妹は、枝が揺れたんだろとそっけなく返した兄に憤慨して、ちゃんと見たもんとこの世のものならざる存在を次々と並べたてたものでした。妹の前にはもっと幼かった彼自身が、同じようにべそをかきながら兄の部屋へ駆け込んでいったのですけれども。

 お化けと羊に泣かされるのは、うちのならわしかな。

 マティルダは鼻で笑ったけどなあと、姉の豪胆さをぼやいた兄が持ってきたものこそが、娘さんにすすめたあの飲み物、高ぶった気持ちを鎮めてここちよい眠りへといざなうカモミールだったというわけです。

 この花には意味があるんだぞ。ひとつは「信頼」、もうひとつは――

 遠い記憶にたゆたう亡き兄のこえを、ぼんやりと思い出しかけた騎士の腕で、ふいに娘さんが重みを増しました。

「ダウフト」

 落ち着いたかと話しかけた騎士でしたが、娘さんからは何の返事もありません。妙だなと思ってもう一度呼びかけてみたものの、うんともすんとも返ってきません。


 まさか。


 おそるおそる、娘さんの顔をのぞきこんだ黒髪の騎士を待ち受けていたのは、あまりにもあまりなできごとでした。

 彼の胸に頭を寄せた娘さんの、かわいらしい唇からこぼれ出るのは規則正しい寝息。呆然としていた黒髪の騎士からやがて上がったのは、地の底から響くような声でした。

「……この、能天気が」

 いくら何でも、寝つきが良すぎるというものです。さっきまで見せていた頼りなげな涙は何なのか、それについほだされた俺はいったい何なんだという魂の叫びなぞ、眠り姫に届くはずもありません。

 おまけにのんきな寝顔からもしっかりと伺える、この全幅の信頼ときたら! これを覆すことができる男はいっそ勇者に違いないと、ちらりとよぎった考えを振り払った騎士が娘さんを叩き起こそうとしたときでした。


「さて、どう申し開きをするつもりだ? ギルバート君」

 黒髪の騎士に放たれた、とどめの一撃。

 城壁塔と階下をつなぐ入り口で、楽しそうな笑みをうかべてたたずむのは琥珀の騎士と、ことのなりゆきに興味津々といった面持ちの兵士たちでした。

「どうしておぬしらがここにいる」

 問いかけた騎士に、なに当直だと琥珀の騎士はあっさりと答えました。

「少しばかり寝過ごして来てみれば、大胆不敵なる我が友ときたら、乙女を腕に逢瀬のひとときときたものだ」

「違うッ」

 もとはといえばこやつがと、黒髪の騎士は起きろと娘さんを揺さぶったのですが。寝相と寝起きの悪さにかけては砦いちと呼ばれる彼女が、おいそれと目を覚ますはずもありません。それどころか引き離されることを察したかのように、ますます騎士にしがみつく始末です。

「おやおや、姫君はずいぶんと離れがたいご様子だな」

「笑っている場合か、リシャール」

 何とかしろと訴える友を、なら一晩そのままでいろと琥珀の騎士は笑い飛ばします。

「乙女の安らかなる眠りを守りまいらせるのも、騎士たるものの務めだろう」

 朝になったらウィリアム殿ともども、そのあたりの事情をたっぷりと聞かせてもらうことにするからなと肩を叩く幼馴染に、

「誤解だーッ」

 満天の星々にも届かんばかりの、騎士の叫びが虚しくこだまするのでした。



             ◆ ◆ ◆



 さて、後日。

 悲しい夢から解き放たれ、元気を取り戻した娘さんが、こわい夢を見るのとぐずる子供たちのために、カモミールを入れて温めた牛乳をふるまうようになりました。

 村でも飲んでいたのかと問うたわがまま侯子に、あるひとに教えてもらいましたと頬を染めて答える娘さんの表情がえもいわれぬ輝きに満ちていたことは、しばらく人々の口の端にのぼることになりました。

 その一方で。

 琥珀の騎士とのっぽの学僧にはさまれて、我が身の潔白を証明するはめになった黒髪の騎士が、そういえばあの花のもうひとつの意味はと、まさに苦難を耐え忍びながら思い出したことは言うまでもありません。


(Fin)

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