そして春は嵐を運び
つめたく白い雪の下から、強く芽吹いた緑たちが伸びゆこうとするある日のこと。
「や、やめてくださいギルバート」
<狼>たちの詰所、大きな瞳を潤ませて、壁を背にいやいやと首を横に振るのは砦の聖女さまでした。そんな彼女の姿に眉一つ動かすことなく、黒髪の騎士は冷ややかに応じます。
「壁際に逃げる奴がいるか」
みずから退路を断つようなものだろうがと呟くと、若い騎士はさあ観念しろと娘さんの前に立ちはだかりました。いやー誰かーと、哀れな乙女の救いを求める叫びに応じる者はありません。
「もういたずらはしません、言うことを聞いておとなしくします。芋と玉ねぎの山もちゃんと片づけますから」
だからあれだけは許してと懇願する娘さんに、黒髪の騎士が心を動かされた様子はありませんでした。
「もう何十遍も聞いた」
そう告げると、おもむろに彼が取り出したのは一通の手紙でした。蝋に押された盾型に三つ星と黄金の鍵を配した都市の紋章、ほのかにたちのぼる花の香りと絹のリボンに、娘さんの口から恐怖の叫びが上がりました。
「それだけはいやっ」
黒髪の騎士が手にしているのは、東の砦と盟友関係を結んでいる商業都市ランスを治める、若き市長ベルナール殿から送られた手紙でした。
ただの手紙ならばさして問題はないのですが、何しろへぼ詩人の名を欲しいままにしている市長です。その長さときたら、はるかなる椿の国に伝わる巻物のごとくくるくると巻かれています。
加えて娘さんをおののかせたのは、多くの修辞と引用と暗喩をこれでもかと駆使した内容の最後にかならず添えられている、ほとばしる情熱を砦にいます我が乙女に捧げんとばかりに、かの御仁が公務の合間に書きつづった壊滅的な詩の数々でした。
その破壊力たるや、まさしく禁忌の召喚呪文です。
そんなばかなことがあるもんかと鼻で笑ったわがまま侯子が、ならば試しにと無愛想な師匠がさらりと読み上げた一行を耳にするなり椅子から転げ落ち、いまだに床でうなされているほどです。
砦の人々からは<ランスの脅威>と怖れられ、ふもとの町では魔物除けの護符として絶大な人気を集めるそれを、迷惑きわまりない長老たちが旅のおみやげとして大々的に売り出し、怪しげな研究の資金調達をもくろんでいるほどでしたが。
こうして新たな脅威が送りつけられるたびに、真っ先にその恐怖を味あわされるのは他ならぬ聖女さまだったのです。
いっそのこと手紙を棄ててしまえば済むのですが、そこはセイジテキハイリョとやらの悲しさです。
いかに私的なものといえども、ランスの市長から砦の聖女に宛てて書かれた手紙の内容を知らぬままとあってはいらぬ波風が立ちかねません。それにいくら内容がすさまじくとも、心をこめて書かれた手紙を粗末に扱うのは人としていかがなものかと思われます。
そうなると必然的に、読み書きを知らぬ娘さんへ内容を伝える役割は、<聖女の騎士>たる黒髪の騎士へ任せられることになりました。わがまま侯子をも瞬時に黙らせた危険な代物を、顔色一つ変えずに読むことができるのは彼だけだったからです。
「ギルバート、おねがいです」
「潔く腹をくくれ」
涙目で訴える娘さんに無情の宣告を下すと、黒髪の騎士は手紙をゆわえていたリボンをほどきました。
娘さんの旗じるしを意識した空色の絹地に、銀糸で草花の刺繍が美しく施されていること。紙面を広げたとたん、かの市長が一流の調香師に作らせたというすいかずらの香が、武骨な場にはなやいだ雰囲気をもたらしたこと。
そのどちらにも気づいたようてしたが、黒髪の騎士はあえて無視を決めこむことにしたようです。
「東の地 朝呼ぶうるわしき剣の乙女へ」
何かの判決文でもあるかのように手紙を読み始めた黒髪の騎士に、いやあと叫んだ娘さんがその場にしゃがみこみ、両耳を手で塞ぎました。
この後に続く、奇々怪々なる表現と斜め向こうに飛躍した感性のもとに、こってりと濃厚かつ暑苦しく綴られた愛の賛歌を思い出し、気が遠のきそうになったときです。
「げんきですか。ぼくもげんきです。ではさようなら」
ぽかんとする娘さんの前で、市長からの手紙がくるくると巻き戻されました。名状しがたき何かを放つ代物を空色のリボンでぎりぎりときつく封じると、
「以上」
大まじめに告げた黒髪の騎士に、その場にへたりこんでいた娘さんは思わず聞き返しました。
「……それだけ?」
「それ以外の主旨はない」
貴重な紙を無駄にするとはと、黒髪の騎士は心底呆れた顔で市長の手紙を見やりました。
「し、詩は」
「聞きたいのか」
手紙を封じたリボンをふたたびほどきかけた黒髪の騎士を、いえ結構ですと大慌てで遮ると、そこで娘さんはあることに気がつきました。
「あの、ギルバート」
「何だ」
「……もしかして、わたしをからかってたんですか」
疑惑とともに発した問いは、黒髪の騎士がとぼけたように肩をすくめてみせたことで確信に変わりました。
「いじわるっ」
思いきり叫ぶと、娘さんは立ち上がるなり騎士にぽかぽかと殴りかかりました。
悔しまぎれにあらん限りの言葉を並べたてる娘さんを適当にあしらいつつ、このくらいはさせてもらわないとなと若い騎士はけろりと応じます。
「憂さ晴らしだ」
「なにが憂さ晴らしですかっ」
繰り出した拳のすべてがひょいとかわされたり、やんわりと受け止められるばかりでちっとも当たらないことにさらに腹を立てた娘さんが、詰所から出てゆく騎士を逃げないでくださいと追いかけはじめます。
そんなわけでしたから、ふたりは気づきませんでした。
騒々しく回廊を行くふたりとは逆の方向で、ことの成りゆきに耳をそばだてていた三人の男たちがその場にくずれ折れていたことを。
「子供か、あやつは」
うなる<熊>どのに、昔からああだと応じたのは誰あろう琥珀の騎士でした。
「赤髪のマギーにも、しょっちゅうあの調子だったからな」
幼馴染にとっては忘れたい過去の傷をぽろりと漏らした琥珀の騎士に、いやそれよりもと砦いちのお調子者が口を開きました。
「あんな要約のしかたがあるか?」
不毛の荒野よりも乾ききった戦友の感性に一抹の不安を覚えたらしいお調子者に、いやそのあたりは奴の私情がふんだんにと琥珀の騎士は嘆息します。
「へぼ詩人からの手紙が、ついに半日に一度の割合で届けられるようになってな」
そうぼやいた琥珀の騎士に、もはや嫌がらせや荒行といったものを通り越した何かを感じたお調子者と熊どのは、互いに手を取りあい身を震わせます。
「ま、まあでも手紙だけなら。べ、別に市長が砦に乗りこんで来るわけじゃなし」
「声がうわずっておるぞ、サイモン」
そう言いながらも、ふたりの<狼>はしっかりと思い描いてしまいました。
どこの祭りに参加するのかと聞きたくなるような派手やかな衣装に身を包んだへぼ詩人と、武骨と無愛想と不器用の三拍子揃い踏みな若い騎士による壮絶な泥仕合などという、もっとも想像したくない暑苦しい代物を。
いやだやめてくれえええぇと、悶絶する戦友たちへ気を確かに持つようにと励ましながらも、そよ風に乗っていじわるーと聞こえてくる聖女さまの声を耳にして。
我らが守り姫の心安からんことをと、琥珀の騎士は天なる<母>へとしるしを切るのでした。
さて、東の砦にてそんな騒ぎが起きていたときとほぼ同じころ、北東からじわじわと迫り来るものがありました。
そよ風に乗せて竪琴をつま弾けば空を行く鳥たちがぼとぼとと落ち、きらめく水に喜びを吟じれば魚たちがぷかぷかと腹を見せて浮き、熱情のままに愛をうたいあげれば、背後から彼のものへと襲いかかり血肉をむさぼってやろうと狙っていた魔物たちがばたばたと斃れました。
いったいどこの勇者さまだいと、魔物がいなくなったことには感謝しつつも、腰が抜けたまま立てずにいる街道の人々が呆然と見送るなか、瞳に希望を、唇に乙女への愛を乗せた男はひたすらある場所を目指して歩みゆきます。
後ろから、勝手にほっつき歩くなって言ったじゃありませんか市長ッ、今度は後ろ手に縛って引っ立てていくのよと、青筋を浮かべた補佐官や従者の一団が土埃を上げて馬で追ってくることにすらも気づかずに。
さあ、風雲急を告げているらしい東の砦の運命やいかに?
(Fin)
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