本を読む男


「修練場か南の城壁塔、とくに書庫」

 エクセター卿を探すならば、まずはこの三か所を。<狼>たちや兵士たちの間でそう囁かれるほどに、ギルバートの読書癖は有名だ。

 およそ戦時や任務中でもない限り、多忙の合間をぬっては書庫へと足を運び、適度な陽射しが降り注ぐ窓辺の席に座して、さまざまな本を読みふけっている。

 長老たちのひとりであるガスパール師の並々ならぬ熱意のたまものか、忌まわしきものたちの侵攻を押しとどめる最前線でありながら、砦の書庫はさまざまな書物であふれかえっていた。

 アーケヴはもとよりレクサム、キャリバーンといった近隣諸国から、学術と交易の都シエナ・カリーンに北方教国リャザン、果てははるか東のアスタナ、奥方ご自慢の白椿がやって来たという島国から届けられた珍しいものまでよりどりみどり。

「もしかすると、へたな僧院よりも本が揃っているかもしれません」

 そう評したのは、ガスパール師の弟子であるバスカヴィルのウィリアムだ。幼い日々を過ごした僧院では、あまりの蔵書の少なさに、向学心に燃える先輩たちの嘆きをしょっちゅう聞かされてばかりいたのだとか。

「我が師は、忘れられた文書館でも目指すおつもりなのでしょうか」

 どこかの森にあるという、世に生み出されたありとあらゆる叡智を収めた不可思議の名を口にする学僧の周囲には、まだ整頓が終わっていない書物がうずたかく積み上げられている。少しでも傾こうものならば、紙と革の雪崩はあっという間にひょろりとした若者を飲み込んでしまうに違いないのだが、

「大丈夫です。師匠やエクセター卿、それにジェフレ卿が掘り起こしてくれますから」

 この程度で音を上げるようでは司書など務まりませんよと、意外なたくましさをのぞかせたりもしている。

 そんな場所こそが、堅物男にとってはまさに天国。そののめり込みようときたら、運ばれた食事に手をつけずに放っておくことも度々で――それでは身体を壊してしまいますと、ヴァルターに諫められてようやく我に返るほどだ。

「はて、おぬしの思い人は深く偉大なる叡智ソフィアだったかの」

 長老たちにからかわれたとて、一向におかまいなし。

「本など広げている暇があったら、甘い言葉のひとつも囁いてみたらどうだ?」

 どこの誰へとは言わんがという揶揄も、漆黒の双眸でひと睨み。再び書物に向き直る黒髪の騎士に、睨まれた当の本人はやれやれと琥珀の頭を横に振る。つれなき女神の愛なぞ求めるよりも、やさしき乙女を腕に抱いた方がよほどましだろうにと呟きながら。

 まあ、何はともあれ。

 敵に目立った動きもない、穏やかな日が続くこの頃。エクセターのギルバートは書庫の窓辺にしつらえられた席に座して、貴重なひとときを楽しんでいるというわけだ。



「どこにいようと勝手だけどな」

 何も書庫になんかいなくたっていいだろうと、ぶつくさと文句を垂れながら回廊を歩んでいるのはデュフレーヌのレオだ。良くも悪くも話題には事欠かない騎士見習いが急ぎ足で通り過ぎていくさまを、兵士たちが何事かと目で追っていることにも気づいていない。

 無理矢理勝ち取った修練の時間、黒髪の騎士が一向に姿を現さないことにひとり苛立っていたレオに、何なら書庫をのぞいてこいよと促したのは同じ見習いの少年たちだった。

「ここにおられなければ、南の城壁塔かあそこしかないからな」

「ジェフレ卿よりはいいぞ。探しに行ったら、中庭でご婦人を口説いている真っ最中だもんな」

「本を読んでおられるようだったら、すぐに引き返せよ。やかましく騒いだりしたら承知しないからな」

 じつに能天気な仲間たちと、少年があるじの邪魔をしないかと案ずるヴァルターの厳しい一言に送られて、修練場を後にするはめになったというわけだ。


「だいたい書庫なんて、何が面白いんだ」

 どうやら堅物騎士にとっての天国は、わがまま侯子には苦行の場であるらしい。

「あくびが出るぐらい静かで、退屈で、本しか置いていないじゃないか」

 剣や馬の稽古にはたいそう熱心であられるのに、はて勉強となるといったいどこへ隠れておしまいになるのやら。砦に来てからも爺やを嘆かせてばかりの若君は、今まで足を向けたことすらない砦の一角へと歩みを進めていく。

 相変わらず自分に黒星ばかりの辛酸をなめさせる騎士、その彼がどうして書庫になど入り浸る必要があるのか、レオにはさっぱり分からない。

 騎士が手にするのはあくまでも剣で、本なんかじゃないぞ。そんな理屈をこねながら、少年が突き当たりを左に曲がった時だ。

「どうしたんですか、レオ」

 反対側から歩いてきたダウフトが、やや驚いたような表情を見せたことに、

「何だ、僕が書庫に行ったら悪いのか」

 ふてくされる少年に、そんなことはありませんよと剣抱く乙女はやんわりと微笑む。

「トマスさまが喜びます。レオが自分から本を読みにくるなんて」

 ぐっと答えに詰まる。どうやら爺やは、大切な若君が勉強そっちのけで修練や遊びに明け暮れていることを砦の聖女にこぼしているらしい。

 爺のやつ、あんなこととかこんなこととか、ダウフトに余計なことを話していないだろうな。たいそうきまりの悪い思いをできるだけ顔に表わさないようにつとめながら、レオは違う用事だと答えてみせた。

「エクセター卿を探すなら、ここから始めたほうが手っ取り早いからな」

「あら、本ではなくて?」

 ちょっぴり残念そうに問いかけるダウフトに、そんなものを読む暇なんかと応じようとしたレオの言葉は、けたたましい叫びに遮られた。

「魔物かッ」

 鋼玉の双眸に緊張感をみなぎらせ、レオは剣の柄に手をかけた。わずかに鞘から引き抜いた<ヒルデブランド>の刀身が警戒を呼びかけるように明滅を繰り返すさまに、小鬼ですとダウフトが応じる。

 せいぜいが翼を広げた鴉ほどの大きさとはいえ、魔族の斥候としてあらゆる場所から忍び込もうとする小鬼の存在は、決して侮ることができない。

 数年前の攻防戦で、先代の騎士団長と十数名の<狼>たち、更に多くの兵士たちが討ち死にする惨事を招いたのは、小鬼たちが砦のあちこちに火を放ったり、兵士たちを攪乱して収拾がつかなくなったところを魔族の本隊に急襲されたことも一因だった。その苦い教訓ゆえに、小鬼を見たら即座に処分することが、今では東の砦に暮らす者たちの不文律となっている。

 騎士の叙任も受けていないレオが、帯刀を許されているのもそのためだ。平時であれば決してありえないことだが、争乱に明け暮れるこの時世を鑑みれば、悠長に構えてなどいられないこともまた事実だったから。


「ダウフト、下がっていろ」

 剣の柄に手をかけたまま、辺りに険しいまなざしを向けたレオだったが――次いで聞こえた断末魔の悲鳴を耳にした娘が、横をすり抜けて走り出していく姿に目を剥いた。

「何をしているッ」

「書庫ですっ」

 振り返ることもなしに答えるダウフトの後を、少年は慌てて追いかけ始める。真っ先に狙われるはずの聖女が勝手に動いてどうすると、堅物騎士の苦労がほんの少しだけ偲ばれたが、いいやあんな奴に同情なんてとたちまち妙な反発心が湧き起こってくる。

「小鬼ていどにやられるような男か、エクセター卿が」

「ギルバートの心配はしていません」

 書庫の前で、ようやくダウフトに追いついた騎士見習いへと返ってきたのは、意外や意外な答え。どういうことだと問いかけたレオに、娘はそっと人差し指を口元に当ててみせた。

 できるだけ静かにと告げ、そっと書庫へ足を踏み入れるダウフトの後に続いた。壁や天井を埋め尽くさんばかりに林立する本たちを眺めやり、わがまま侯子はたちまちげんなりとした顔になる。

 こんな所にいるくらいなら、剣や槍の稽古でもするか、アネットを連れて遠乗りにでも出かけたほうがずっとましじゃないか。

 レオにとっては立ちくらみを起こしそうなその場所、陽当たりのよい窓辺にある席にエクセターのギルバートは確かにいた。ついさっき、書庫に響き渡ったであろうけたたましい声など聞きもしなかったという顔で、黒い双眸を広げた本へと落としている。

「レオ、あれを」

 そっと、服の裾を引っ張られた。ダウフトが指さす方向を見てみれば、壁にかけられた綴れ織に縫い止められるようにして絶命しているのは、何と小鬼ときたものだ。

 その喉元を貫く短剣に、あれを一投で仕留めたのかと感嘆にひとかけらの妬心を混ぜながら、レオは黒髪の騎士を見やる。

「邪魔……したんですね」

 <母>への慈悲を願うしるしを切りながら、これで何匹目かしらとダウフトは呟く。

「邪魔って?」

 おそるおそる問うレオに、

「ギルバートは、読書の邪魔をされることをとても嫌がるんです」

 大声で騒いだり、足音も荒く書庫に駆け込むなどもってのほか。ましてや、本を放り投げたり、破いたりしようものなら雷の一つや二つで済むかどうか。

 どうやら忍び込んだ小鬼は、書庫の本か騎士自身にちょっかいを出そうとしたらしい。

 一見、無防備に本を読みふけっている男が、戦ばかりの歳月を生き延びることができたわけ――至福のひとときを妨げんとする雑魚を仕留めることに、彼がためらいを覚える理由などありはしないことを、生命と引き替えに悟ったというわけだ。

 絶対に邪魔するなよ、というヴァルターの言葉が今更になって思い出される。迂闊に近づいたばかりに返り討ちにでも遭った日には、それこそ砦じゅうの笑い者だ。

 とはいえ、魔物を屠ってまで何をそんなに夢中になっているのか大いに気になるところだ。


 そっと近づき、黒髪の騎士が広げている本をのぞき込んだ。紙面につらねられた文章をしばし追っていた少年の表情が、みるみるうちに呆れたものに変わっていく。

「レオ、ギルバートは何を読んでいるんですか?」

 興味深そうに問うダウフトに、鋼玉の双眸をちらりと向けて。

「豚肉のレンズ豆煮込み、野菜の蒸し煮生ハム添え、魚介類のスープサフラン風味、玉ねぎのタルト」

「……タルト?」

「料理の本だッ」

 真剣な顔をして、いったい何を読んでいるのかと思いきや。

「チーズならブリー産、鶏ならリヨネ、葡萄酒ならデュフレーヌが極上。三番目はまあ当然だけれど」

 ある冒険者が書き残した、アーケヴ各地の名物料理について記した手記――早い話がただの食い倒れ旅行記を真顔で読んでいるギルバートに、とねりこ館の若君は呆れたまなざしを向ける。

「要するに、本なら何でもいいってことじゃないか」

 学術と交易の都から届いた学術書であろうと、北の教母が残した美しい詩編であろうと、はたまたディジョンで好まれる滑稽な物語であろうとも。

 およそ本と名のつくものであれば、エクセターの堅物騎士はそれだけで十分であるらしい。

「いっそウィリアムみたいに、学僧にでもなった方がよかったんじゃないのか」

「あら、わたしは好きですよ。ギルバートが本を読んでいる姿は」

 いつになくやわらいで見える横顔や、そっと頁を繰る指、つらねられた言葉をたどるまなざしがひそかに輝いているさまは、珍しいものを目の当たりにした子供のようで。

「たまに、読んでいる本のことを話してくれるんです。古い昔ばなしとか、行ったことのない国のこととか」

 読み書きを知らない村娘には、騎士が手にする本やペンで綴ってみせる言葉そのものが、不思議な心地よさを帯びた善き魔法のように見えるらしい。

「剣を手にしているときよりも、ずっと楽しそうです」

 堅物騎士の表情をやさしく見つめるダウフトの様子に、何だかひとり置いてけぼりにされたような気がして、とねりこ館の若君は口をへの字に曲げる。

「でも玉ねぎのタルトなら、本物を見たほうが早いのに」

 くすりと笑うと、ダウフトは厨房へ行きませんかとレオを誘う。

「ここに来る前に、ノリスさんにお願いして竈へ入れてもらったところだったんです。そろそろ焼き上がる頃かしら」

 あめ色になるまで炒めた玉ねぎとかりかりのベーコン、それに卵とクリームの味わいがまたとない調和をかもしだす料理は、オードの女たちに代々伝えられてきた家庭の味だという。

「おばあちゃんから母さん、それからわたし。家ごとに少しずつ違った味になるんです。ギルバートが気に入ってくれるといいんですけれど」

「もちろん、僕の分もあるんだろうな」

 あって当然だなと言わんばかりのレオの問いに、じゃあ皆でお茶にしましょうかとダウフトは目を輝かせる。

「ウィリアムさんとガスパールさまにも声をかけていきましょう。それからお茶とタルトをもらいに」

 ほんの一瞬だけ、修練のことが頭をよぎる。

 だが、さかんに食欲を訴える己が腹の正直さと、レオも手伝ってくださいと笑うダウフトの様子に、後にするぞととねりこ舘の若君は即決した。エクセター卿にばかりいい思いをさせてたまるもんかという、何とも子供らしい対抗心を鋼玉の双眸にのぞかせながら。


 さらに後。

 『剣術指南』なる本を抱えて戻ってきたわがまま侯子の姿に、彼の本嫌いを知る仲間の少年たちは大いにたまげることになる。

 食べ物につられたわけじゃない、と真っ赤になって言い訳をしようとしたレオの服からタルトの欠片がこぼれ落ちたことで、おまえひとりで何を食べた、抜け駆けしやがってこのと、ちょっとした騒動が持ち上がったのはまた別のはなしになるのだけれど。


 まあ、何はともあれ。

 やかましい小鬼にも、目の前で繰り広げられていた少年と聖女のやり取りにもおかまいなしに、エクセターのギルバートは本を読み続ける。

 彼の前に、香ばしく焼き上がった玉ねぎのタルトと、すこし休みませんかと微笑みかける娘と、面白くなさそうな顔で茶器を乗せた盆を手にした若君とがお目見えするのはそう先のことではないようだ。


 ぱらりとめくられる頁、ゆったりと流れ行く穏やかなひととき。

 騎士は今、じつにしあわせだ。


(Fin)

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