おもいとげねば


 昔むかしの、そのまたむかし。ある西の国にひとりの騎士がおりました。

 剣を取れば勲功くんこう比類なく、あるじの覚えもめでたき勇敢な若者ではあったのですが、これが兎にも角にも不器用者。おべっかはもとより、うるわしいご婦人がたを楽しませるようなしゃれた会話のひとつもできはしません。

 ですから宮廷人たちは、いつも彼のことをつまらぬ男よ武骨な田舎者よと呼ばわり、笑ってばかりおりました。


 そんなある時、若い騎士は主君の命で遠い東の地に赴くこととなりました。

 行く先は、竜が護ると伝えられる不思議のくにアスタナ。生まれて始めて見る異国のめずらかな風景や人々の姿を、旅の疲れも忘れて夢中で眺めやる騎士を、ひとりの大臣が宴に誘いました。

 豪勢な屋敷の一角、大臣ご自慢の美しい庭園で開かれた月を讃えるみやびな宴。酒精にほてった頬をさます宵風が心地よくなってきた頃、すっかり上機嫌になった大臣が客人に舞を披露せよと呼ばわったその者に、若い騎士の目は釘付けとなりました。

 現れたのはひとりの舞姫。

 白磁の肌を目にもあやなる絹と紗とに包み、真珠や翡翠、こがねしろがねに身を飾り。べにをさしたあでやかな唇からこぼれる微笑にすら花の香を乗せて、舞姫はそれは見事な歌と舞で客たちを楽しませ溜息を誘います。

 庭じゅうに咲き誇る牡丹の化身か、はたまた輝く月から舞い降りた天女か。佳人の姿にただ心奪われるばかりの異国の騎士に、あれこそ当代随一の踊り手よと大臣は胸を張ります。

 並みいる競争相手を押しのけて、身と同じ重さの黄金と引きかえに購った我が宝。たとえ城を差し出されようとも、金銀財宝を積まれようとも手放す気などありませぬと。

 高らかに笑った大臣のことばに、美しい舞姫のかんばせに憂いが、まなざしに翳りがさしたことを騎士の目は誰よりもはっきりととらえておりました。


 それからというもの、西の騎士はひとり溜息をつくことが多くなりました。慣れぬ異国の地ゆえに、病にでもかかったのではと周りが案じても、気のない返事をするばかり。

 ええ確かに、若い騎士は病にかかっておりました。古今東西、<母なる御方>の子供たちを思い悩ませてきた何とも厄介な代物に。

 いかなる一太刀よりも、騎士の心に一撃を与えたのは舞姫の笑み。鋭き矢よりも胸を突いたのは舞姫の憂い。

 かなうものならば、いつまでもあのひとの笑みを見ていたい。花のような顔を曇らせる憂いを取り除いてさしあげたい。

 とはいえ、舞姫は大臣のおもいもの。幾重にも守られた牡丹の屋敷の奥深くに、得がたい宝の如くひそかに隠されておりました。おまけに騎士のもとへは、使者の務めを果たした以上一日も早く戻ってくるようにと国許から矢の催促。

 悄然と帰り支度をはじめたものの、佳人の姿を思い描けば描くほどに、くにに戻る日が近づけば近づくほどに、心にともったおもいは消えるどころかつのるばかり。

 とうとうくにに帰る前日、月の輝きが美しい晩に、騎士は牡丹咲く屋敷へとひとり忍び込んだのです。

 せめて最後に一目だけ、舞姫の姿を焼き付けておこうと決めていたものの。窓辺に見えた恋しい人の姿を目にしたとたん、騎士の口を突いて出たのは思わぬことば。


 わたしの故郷には、牡丹の花咲く美しい庭などありはしない。寄せては返す北の海から吹く風は厳しくて、つましい暮らしではあの方を飾るにふさわしい絹も黄金も得られはしない。

 それでも遠い故郷の緑萌ゆる春を、柔らかな風に林檎の花が舞う美しい地を、あなたとともに見たいと願ってしまうのは何故だろう。


 騎士の呟きは、切なる思いは、舞姫の耳にしっかりと届いておりました。

 たまらず窓を押し開けて、驚く騎士に微笑んで。うるわしい舞姫は続けます。


 絹や繻子を纏うても、まろやかな翡翠や金に身を飾っても、ここの暮らしは籠の鳥。柳を揺らす風のやさしさも、蒼穹を流れゆく雲のおおらかな姿さえ眺めることもできません。

 このまま朽ちてゆくよりも、生命うたう女神の寿ぎの中でわたしは生きたい。青い海をまなざしにたたえ、あたたかな陽の光を髪に宿したあなたの故郷を見たいのです。

 たとえ凍える海風が吹こうとも、身を包むに足りぬ小さな毛皮しかなかろうとも、ふたりともにあれば何のことがありましょう。

 窓辺から騎士の腕に身を預け、舞姫はただ一言囁きました。

 どうか、連れて行ってくださいませと。


 翌朝、屋敷のものたちが目覚めてみれば。異国の騎士と舞姫の姿がすっかり消え失せておりました。

 恩を仇で返すとは何たる輩、ふたりを追いかけ罰するようにと家人たちが口々に勧めるなか、主を失った美しい鳥籠のごとき部屋を眺めわたし、大臣は答えました。

 たとえ千里を追いかけようと、ふたりの心は万里のかなた。とうてい追いつくことなど能うまい。

 こがねしろがねを積もうとも、山ほど絹や真珠を与えようとも、こころに枷を嵌めつなぎ止めておくことなどできなんだ。

 そう言って、じつに深く切ない吐息をついたといいます。



「それから、ふたりはどうなったのですか。リシャールさま」

 うっとりと溜息をつきながら、ダウフトは問う。

 過日の戦いで脚に傷を負ったため、医師から安静療養を命ぜられた乙女の無聊を慰めようと語ったはなしがたいそう好評であったことに、ダウフト殿とてこういうはなしに憧れる年頃なのだなとリシャールは微笑ましいまなざしを向ける。

「逃げられるなら、べつに誰でも良かったんじゃないのか?」

 そうごちたレオが、雰囲気を壊さないでちょうだいとかほんとうに野暮ねあんたってとか、昔語りに耳を傾けていたレネやマリーにやりこめられるのをよそに、どうなったと思いますかとリシャールはダウフトに問うた。

「きっと、騎士さまの故郷に行けたと思います」

 ふたり一緒に、手に手を取ってと迷いもなく答えたダウフトに、その通りですよと琥珀の騎士は笑う。

「林檎の花が春風に舞う、遠いエクセターの地にね。ギルバートの黒髪はそのあかし」

 さらりと告げられたとんでもない真実に、たちまち娘たちの間からは黄色い声が湧き起こる。

「ほんとうなんですか、リシャールさま」

 信じられないと言いたげなダウフトの表情に、この場にあやつがいたらさぞ見物だったろうなと思いつつ、リシャールは言葉を続ける。

「エクセターの黒髪といえば、我が故郷では必ずといっていいほどに挙げられるはなしです」

 いかめしい歴史書の片隅にも、ほんの数行だが書きとめられている事実だ。数代前のエクセター家の騎士が、東方から黒髪流るる美しい花嫁を連れ帰ったときの騒ぎときたら、それはもう大変なものであったらしい。

「で、どうしてその裔があれなんだ?」

 至極もっともなレオの問いに、まあそう言うなとリシャールは苦笑する。たしかにこの話をすると、ジェフレ卿の祖先というならまだ分かるのにと、大抵の者には驚きなおかつ呆れられるのだが。

「まあ、では油断はできませんわよ。ダウフトさま」

 鳶色の瞳を輝かせ、両手を組んだレネの勢いにいったい何がダウフトはたじろぐ。

「何がではありませんわ。あんまりぼんやりしておられると、月夜の晩にさらわれてしまいますからね」

「そうですわ。でもその時は、ちゃんと連れて行ってくださいませと答えなくては」

 はしゃぎまくるレネとマリーに、いえわたしはそのと耳朶まで真っ赤にして慌てるダウフト。あのエクセター卿にそんな度胸があるもんかと、面白くなさそうに鼻を鳴らしたデュフレーヌの若君にさて分からんぞと琥珀の騎士はうそぶく。

「堅物で真面目なだけがとりえ、面白味も何もないと揶揄されがちなのがエクセター家の男なのだがな」

 ところがどうした、一度動き出すともはや誰にも止められない。周りが腰を抜かすようなことを、そうと自覚せずにやってのけてしまう大胆さを秘めていたりする。

 黒い髪と双眸は、騎士と舞姫ふたりがとげたおもいのあかし。あの堅物男に、果たしてそれが受け継がれているかどうかはいささか怪しいところではあったけれど。

 それでも、かたくなによろった心の奥底に眠る埋み火に、息吹を与えたのはやさしい目をした乙女だ。

 身を灼き尽くす焔となるか、心解きほぐすぬくみとなるか――まだ誰にも分かりはしない。

「まあ、おぬしがその辺りの機微を分かるようになるのは、ずいぶん先のはなしになりそうだがな」

 琥珀の騎士の言葉に、ほんとうにその通りですわとうなずいた金髪と赤髪の娘たちに睨まれて。三対一という分の悪さに、そんなことはないぞととねりこの若君はひとり虚しい抵抗を試みるのだった。



 さて一方。

 砦のふもとに広がる町、人々でにぎわう市場の片隅でくしゃみが一つ響き渡った。おや、<かあさん>のご加護をと笑いかけた屋台の親爺に短く礼を述べ、はて風邪かと首をかしげたのは噂の張本人だ。

 脚に傷を負ったダウフトに、ぼんやりしているからだと説教を垂れたものの。すっかりしょげてしまった娘の様子に言い過ぎたかとしばし後悔した。お詫びとお見舞いに何かお届けしてはいかがですかとヴァルターにこっそり勧められ、こうして市場までやってきたというわけだ。

「山葡萄のパイに林檎の菓子、それとも肉入りのパテかあつあつのタルトか。ダウフトさまはどれがお好きでしょうね」

 うきうきしながら問うた従者に、それはおぬしが食べたいものだろうにと呆れたギルバートの目がふと小間物を扱う店先へと向けられた。

 鳥を模した銀の台に、小さな真珠や孔雀石をあしらった異国風の髪飾り。

 これはお目が高い、はるばるアスタナから運ばれてきた品でございますよと店の者が懸命に売り込もうとするのを丁重に断わって、騎士は店先から離れて歩き出す。


 故郷の館に残された、まったく同じ意匠の髪飾り――数代前の先祖が贈ったその品を、東方から迎えられた奥方は、<母>の御許に召されるその日までつねに髪に飾り続けていたのだとか。

 子供の頃、母や兄から聞かされた昔話を思い出し、何とも言えぬ面はゆさに肩をすくめる。さっきから菓子を扱う屋台の前から動こうとしないヴァルターに、好きなものをいくつか選ばせることにして、ギルバートはさて見舞いの品をどうしたものかと頭を悩ませるのだった。


(Fin)

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