馬とあるじ
エクセターの騎士殿の相棒はブリューナク、ことし四歳の牡馬だ。
ぴんと立った耳に引き締まった顔立ち、知性にあふれた褐色の瞳、ふさふさとした
堂々としながらも優美さをも併せ持つ黒鹿毛は、騎士団長ご自慢のうるわしきアンガラド、アラン卿のダム・ブランシュ、戦友リシャールのバリエカと、厩舎に居並ぶ他の馬たちにも引けを取らぬ見事さだ。
そんなわけだから、月のない晩に厩舎に忍び込んだ大胆不敵な馬泥棒たちが、真っ先にブリューナクに目をつけたのも無理からぬこと。とっとと仕事をしちまうぞと親分にどやされて、十をいくつかすぎたばかりの子分が黒鹿毛に近づいた。
ところがうっかり者のこの子分、馬の扱いなぞろくに知らぬときたもんだ。ブリューナクの背にまたがって、鞭をくれようとしたものだからさあ大変。
仮にも軍馬をつとめる身、頭も良いし矜持も高い。あるじ以外の人間に断りもなく背にまたがられた上、尻に鞭を当てられる屈辱に黙って耐えていようはずもない。
嘶きとともに不届きな輩を振り落とし、馬房の木枠を蹴り壊し。こりゃいかんと他の馬泥棒たちが逃げ出して、騒ぎに気づいて駆けつけてきた砦の者やあるじになだめられるまで、ずっと怒り狂っていたそうな。
「そっくりじゃないか。主人と」
囲いの中から、そら真面目にやれと馬丁見習いをからかっているブリューナクを見てしみじみとうなずくリシャールを、ギルバートは何が言いたいと横目で睨む。ちなみに、黒鹿毛に鼻先でどつかれながらもせっせと藁を担いでいる少年は、過日の騒ぎでただひとり逃げ遅れた馬泥棒の子分だ。
砦に忍び込み、あまつさえ盗みを―それも騎士の馬をだ―働こうとした廉で、本来ならば厳罰に処せられても仕方のないところ。
だがブリューナクに振り落とされ、藁の山に突っ込んでもがいている馬泥棒の珍妙な姿と、引きずり出してみればそれが縛り首だけはいやだあぁとべそをかく子供であったことに誰もが唖然とした。おぬしはどうしたいと騎士団長に問われ、馬を盗られそうになった当人はしばし黙っていたのだが。
お助けええぇと悲鳴を上げる少年の腕を掴んで立たせ、騎士は厩舎の親方を呼ばわった。愛する馬たちを脅かされたことに天を仰いで<母なる御方>を呪っていた親方は、ギルバートが突き出した少年の姿に目を丸くした。
「ろくに扱いも知らぬらしい。叩き込んでくれ」
つい最近、暇をもらった馬丁の代わりに働き手を探していただろうと言う黒髪の騎士に、よろしいんですか旦那と親方はいたく不満そうに問いかけた。
「あっしなら、こっぴどく鞭をくれてやったうえに森へ放り出しますがね」
「――だそうだ。魔物の晩飯になりたくなければ、真面目にやることだな」
ブリューナクに踏み潰されずに済んだだけでも、少しはましな運をしているようだ。そううそぶくと、もはや興味が失せたとでもいうかのように騎士は二人に背を向けた。これでは他の者への示しがつきませぬ、とあくまでも厳罰を求めようとした家令の訴えを、まあ良いではないかと騎士団長は豪快に笑い飛ばす。
「ブリューナクのあるじが決めたことを、後から覆すわけにもいくまいて」
それに子供のひとりも置けぬほど、我らは
そんなわけで、親分の人相だの砦に忍び込んだ手口だのを大人たちに二、三聞かれたのち、少年は馬丁見習いとして砦で働くことになった。
新参者ゆえに馬たちにはからかわれてばかり、親方の雷もしょっちゅうだ。
とはいえ以前のように、ひもじさを抱えながら木の虚に身を潜めて止まない雨を見つめたり、酔っぱらった親分に理由もなくぶたれるような暮らしをしなくてすむ。恰幅のよいおかみさんがよそってくれる粥はいつでもあたたかいし、寝る場所だってちゃんとある。そう思ったのか、おいモリス、こらモリスとどやされつつつも、少年はそれなりに何とかやっている。
もっとも、ブリューナクとの緊張した関係は続いているようだ。だから俺が悪かったってと言いながら世話をしようとする少年を、お前なんぞまだまだとばかりにからかう黒鹿毛のお許しが出るのは、当分先の話であるらしい。
「妙なところで人がいいのは、馬も主人も同じということか」
「誰がだ」
あまりにも情けないモリスの姿に、怒る気にもなれなかっただけだとギルバートは言う。他の馬泥棒たちについても、騎士団長の名において手配書が出されたものの、どうやら捕まる見込みは薄いようだ。
「ブリューナクとて同じだろう。あれのことは俺が」
よく分かっている、と続けようとしたギルバートの言葉がそこで途切れる。
「ブリューナク」
騎士たちの先で、黒鹿毛へにこにこと笑みを向けているのは砦の聖女だ。おっとり屋のリーヴスラシル、自身に与えられたやさしい牝馬の世話をしようと厩舎にやってきたらしい。
「リーヴもおまえも、いつも元気ね」
やさしく首筋を撫でられて、大層ご満悦のブリューナク。もっと撫でてくれとダウフトに顔をすり寄せて甘えきっている。
「よく分かっているじゃないか、主人の本音を」
にやにやとするリシャールに、口元を引きつらせたギルバートのことなど知らぬ顔。おまえのご主人はどうしたのと問うダウフトに、そんな奴のことはいいからもっと構ってとばかりに尻尾まで振っている。
「いっそおぬしも、ブリューナクに倣ったらどうだ?」
さわやかに笑う友には答えずに、黒髪の騎士はブリューナク、と叫ぶとそのまま己が馬のもとへと歩んでいった。ギルバートもお世話をしに来たんですかと問うダウフトへ適当に言葉を濁しつつ、騎士はブラシをかけてやるから来いと愛馬を呼んだのだが。
乙女との逢瀬を邪魔された腹いせか、主人にそっぽを向くブリューナク。更に頭をすり寄せる黒鹿毛にまあ甘えん坊ねと笑う乙女。それを耳にして、何とも言いがたい表情でこら離れんかと慌てる騎士。
「いやはや、じつに心なごむ光景だ」
二人と一頭のちょっとした騒ぎを眺めやり、さて俺もバリエカの様子を見に行くかなとリシャールは呟く。
その表情が、何やらいたずらを思いついた子供のように楽しげなものであったことに気づいた者は誰もいなかったのだが。
そして後日。
リシャールの奴はどこにいると憤然として探し回る黒髪の騎士と、物陰に身を潜めて幼馴染から逃げ回る琥珀の騎士の姿とが、砦のあちこちで見受けられたそうな。
その原因は、わずか半日で砦じゅうのご婦人がたの間に広まった、乙女の愛でる馬にやきもちを焼いたある騎士の噂。
口から口へと伝えられ、その度に背ひれと尾ひれがついてゆく話にあれこれと騒ぎたてる人間たちをよそに、当のブリューナクは今日も元気に見習いの少年をからかい、よく草をはんでいる。
「何だか、砦じゅうがにぎやかね」
不思議そうなダウフトに、まあ気にするほどのことでもと尻尾を振ると、ブリューナクは乙女が手にしている真っ赤な林檎をくれとねだるのだった。
(Fin)
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