甘く、ほろ苦く


 卓に置かれた杯に、どうにも不安の色を隠せないのは聖女さまでした。


 目の前には、あたたかな湯気をたちのぼらせる飲み物がひとつ。けれども、こんな不思議な代物を彼女は見たことがありません。

 甘酸っぱい柘榴や柑橘のみずみずしい果汁ではありません。深みをたたえた赤や透き通った白の葡萄酒とも違います。<狼>たちが好む琥珀色の麦酒やウシュク・ベーハでもなければ、奥方さまのお気に入りであるなめらかな苔のような色合いのお茶とも違います。

「どうしたのですか、ダウフト殿」

 笑いかけたのは、他ならぬ奥方さまでした。

「冷めないうちにお飲みなさい。暖まりますよ」

 砦の母と呼ばれ慕われる貴婦人がやさしくすすめてくれるのですが、娘さんはためらうばかり。それでも、気にはなるのかときどき緑の瞳が杯に向けられます。


 杯の中から彼女を誘うのは、とろりとした褐色でした。

 もとはたいそう苦い代物だとかで、蜂蜜を入れて甘みをつけているそうですが。適度に加えられたエッセンスとそれ自体のこころよい薫りとが、どうぞわたしを手にとってとあまく囁きかけてくるかのようです。

 でも、とためらう聖女さま。

 何ならレネからと、勝ち気で好奇心旺盛な金髪娘を誘おうとしたのですが、ダウフトさまをさしおいて、わたくしが先にいただくわけには行きませんと断わられてしまいました。おとなしい赤髪のマリーに至っては、やはり彼女もこれを見るのは初めてなのでしょう、ずいぶんと不安そうな表情を浮かべています。

「まあ。まるで、薬を飲むのを嫌がる子のようだこと」

 ころころと笑いながら、奥方さまは悪いものではないから大丈夫と娘さんを諭します。

 心を決めた娘さんの手が杯に伸びました。おそるおそる杯を口につけ――その瞳が大きく見開かれました。


 なんて、おいしい。


 喉の奥へと流れてゆく甘い至福に、どこかうっとりとした表情さえ浮かべて、夢中になって一口また一口と杯を傾けていきました。まるで頑是ない子供のようなその仕草に、砦の母君はやさしく、どこか懐かしそうに目を細めます。

 ことりと置かれた空の杯に、ほら、怖がることなどなかったでしょうと奥方さまが呼びかけます。それにうなずいて見せた娘さん、意外だという表情で口を開きました。

「竜の血って、こんな味なんですね」



「ギルバートっ」

 回廊の向こうから響いてきた声に、若い騎士は黒いまなざしを上げました。

 またわたしをからかって、と憤然とこちらへ走ってくる姿に、どうやらあの話にひっかかったらしいと察した騎士殿は、聖女さまが追いつくよりも前に広げていた本を閉じるとさっさと歩き出しました。

「竜の血だなんて嘘ばっかり。奥方さまやレネ、みんなに笑われました」

「誰がそんな物騒なものを出す。<神の糧テオブロマ>と呼ばれる植物だ」

 はるばる南のシェバから運ばれてきた、めずらかな木の実から採れる油脂にあれこれ手を加えると、あの甘く薫り高い飲み物が出来上がるというわけです。

 確かに、竜の血は万病に効くといわれる霊薬です。求めんと旅立ったきり帰ってこなかった者のはなしも数多く知られています。けれどもよく考えてみれば、今や伝承の中にのみ名を留めるアスタナの聖獣が、おいそれと人間の前に姿を現わすはずもありません。

 若い騎士が大まじめな顔で語ったほら話を、すっかり信じこんでいた時の娘さんの怖ろしげな表情ときたら、さぞや見物だったことでしょう。

「美味かったろう? 滅多に手に入らない代物だ、疲れも取るし滋養にもなる」

 なかなかお目にかかることのできない、甘い味わい。しかもそれが、東方の竜と同じぐらいに珍しいものとくれば、少しは口にさせてやりたいと思うもの。普通にすすめてあげたならば、娘さんだってとても喜んだことでしょう。

 けれどもエクセター生まれのこの男、武骨と無愛想と不器用の三拍子に加えてかなりの臍曲がり。なかなか素直になれないところが困りものです。もしかすると、たまにはからかってやろうという悪戯心も働いたのかもしれませんけれど。

「お、おいしかったけど――それとこれとは話が別ですっ」

 いじわると言いながら、あと少しで自分をつかまえそうになった手をひょいとかわして、騎士は更に怒って追いかけてくる娘さんの声を背に、回廊を歩いていくのでした。


 ところが翌日。

 黒髪の騎士は、己のしでかしたいじわるをたいそう後悔するはめになりました。


 伝令も青ざめんばかりの勢いで、砦じゅうのご婦人がたに広まっていたのは、かの飲み物にまつわる噂――疲れを取り滋養もつけるが、何よりも効きめがあるのは、その甘くほろ苦い味わいと同じ思いを抱かせる、竜にさえも癒せぬある病にだというはなし。

 砦の医師イドリス老と、生き字引たるガスパール師とがうそぶいた珍説に、これは聞き捨てならないことですわとご婦人がたが大いに舞い上がり――そういえばダウフトさまがあれを飲んだのも、どこぞの某にすすめられてのことらしいと、レネやマリーたちが口走ったものだからさあ大変。

「何と水くさい、そこまで思い詰めておきながらどうして言わなんだッ」

「この際だ、おぬしもこれを飲んで思いを遂げてこい。いさぎよく散るも男子の本懐ぞ」

 口々に勝手なことを言いながら、仲間の<狼>たちが次から次へとすすめてくる甘くほろ苦い杯に、何でこうなるとひとりごちた彼の背後で、『植物大全』なる分厚い書物を抱えた若い学僧と琥珀の騎士とが、互いに顔を見合わせてほくそ笑んでいたことなど知るはずもありません。


 いじわる騎士に逃げられて、悔しがる聖女さまを見かけた琥珀の騎士が、どうなさったのですと話しかけたことがきっかけでした。ふくれっ面の娘さんから話を聞いて、あのたわけめがとまなざしを眇めた琥珀の騎士が若い学僧に相談を持ちかけ、このひそかな仕返しを思いついたというわけです。

 臍曲がりにはいい薬だとうなずきつつ、そこで琥珀の騎士はある疑問を抱きました。

「ウィリアム殿。<神の糧>とやらは、どこまで効き目があるんだ?」

「はて、わたしもぜひ知りたいのですが」

 騎士の問いに、若い学僧は『植物大全』を広げて首を傾げます。

「それらしき記述はあるのですが、師匠にお尋ねしても笑ってはぐらかされるばかりで」

 美しい挿絵が施された図鑑の片隅に記された文章を指さす学僧に、琥珀の騎士はなるほどと苦笑します。

「どうやら、ガスパール師は行動こそ肝要と仰りたいらしい」

「こ、行動ですか」

 たちまち顔を赤らめる学僧にも、どうやら気になる誰かさんがいるらしいと察した琥珀の騎士。まあ焦らずじっくりと行くことだと、友の少々頼りない肩を励ますように軽く叩いたのでした。

 ただ。

 そのすぐ後に、期待に顔を輝かせたご婦人の一団と同じ数の杯が彼自身のもとへ押し寄せるというまことに恐るべき事態を、神ならぬ身としては知るよしもありませんでしたが。


 とろりと甘い褐色に一喜一憂するのは、むかしもいまも同じこと。


(Fin)

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