遠くて近い
「ギルバート、待ってください」
ひんやりとした冬の空気がただよう回廊に、澄んだ声が響く。南の城壁塔へと通じる石段の入り口を守っていたふたりの兵士のうち、ひとりが顔を上げた。
中庭の緑の向こう、自分たちがたたずむ場所から真正面に見える回廊を無駄のない足取りで歩み行くのは黒髪の騎士、その後ろを懸命に追いかけているのは砦の聖女だ。
そんなに速く進まないでくださいと訴えるダウフトに、ついてこれぬわけではないだろうとエクセターのギルバートは言葉を返す。
歩幅にすれば、ほんの数歩。手を伸ばせば届くような、届かないような距離を騎士は決して縮めようとはしない。
なんだか冷たいひとだなと、眉をひそめてそう呟いたのは頬にそばかすの跡を残した若い兵士だった。
怖ろしい魔族やいくさの狼煙から、自分たちを救って下さるはずの聖女さま。仮にも側に仕える騎士ならば、身命を賭してお守り申し上げるのが普通だろうに。それなのに、聖女さまに対するエクセター卿の態度ときたら、まるで流氷を抱いた海のようだというはなしではないか。
いたずらをしでかした妹を叱る兄ではあるまいに厳しく説教を垂れたり、名前を呼び捨てにするなどという畏れ多いことを平然とやってのけたり、針仕事や芋の皮むきといった厨房の手伝いまでさせている。
<髪あかきダウフト>、剣抱く乙女をそのあたりにいる娘と同じように扱う男だと、良くも悪くも砦で飛び交う噂を耳にしてはいたのだが。こうして実際に目の当たりにしてみると、なんだか聖女さまが気の毒に思えて仕方がない。
若者の表情に、そういやおまえさんはここに来たばかりだったなと古参の兵士がおかしげに笑った。
どういうことですおやじさんと、不思議に思った若者が問いかけると、もとは西のウォリックで暮らしていたという壮年の男は、エクセター卿の様子を見てみろとだけ答えを返す。言われるままに二人のほうへと視線を転じた若者だったが、その双眸が大きく見開かれる。
「……きれい」
回廊へと伸ばされた木々の枝先に咲き誇る花たちに、ダウフトが足を止めて感嘆の声を上げる。それを耳にしたのか、先を行っていたギルバートがわずかに振り返り、気取られぬように歩みを止めるのを若い兵士は見ていた。
「一輪だけ、もらってもいいですよね?」
誰に断わるでもなく呟くと、ダウフトはよいしょと手を伸ばして気に入った花を摘みとる。
あでやかな貴婦人の裳裾を思わせる淡紅の美しい花に目を輝かせ、甘い香りをしばし楽しむ娘の幸せそうな様子に、無愛想で知られる男の表情がわずかにやわらいで見えたような気がしたのだが。
ほら、見てくださいとにこやかにダウフトが振り返ったときには、エクセターの騎士はすでに娘に背を向けて歩きはじめている。もう、待ってくださいと慌てて追いかけるダウフトとの距離は、やはり数歩ばかり離れてはいたのだが。
小娘のお守りなどという、こんな厄介事からはさっさと解放してくれとでも言いたげな表情をしながら、深い夜のような双眸が注意深く辺りに向けられていること。
突き放しているかに見えた距離は、もし聖女を狙う者が現れたとしても、すぐさま手を伸ばして背後にかばうか、彼女を逃す間に騎士自身が盾となり容易に敵を近づけることのない――たとえ抜刀しても、娘を巻きぞえにすることのない間であること。
後を追いかけてばかりの格好になりながら、瑞々しい緑をたたえた聖女の瞳には、目の前の騎士に対する揺るぎない信頼が満ちていること。
そうしたことに気がついた若者の口元が驚きと、しだいに納得がいったような笑みにいろどられていく。
冷たい灰色の海だとばかり思っていた騎士の心は、どうやら凍えた冬の曇天からふとこぼれる陽光にも似たものであるらしい。いつものことさとでも言うように肩をすくめる年配の相棒に、若者はうなずいてみせる。
不器用な物言いや態度に隠された騎士の真意。それを感じ取り、受けとめることのできる不思議な力こそが、聖女さまが聖女さまたる所以なんだなとしみじみと思う。
いっそ二人きりの時くらい、これでもかとばかりに寄り添ってみたらいいのに。そんな思いさえ頭に浮かんだが、若い兵士は慌てて首を横に振った。
ジェフレ卿ではあるまいし、うっかりそんなことを口にしようものならば、良くて騎士にあっさり聞き流されるか、悪ければ七日連続の模擬訓練を課される地獄を自ら招くだけだと思い直したからだ。
それでも、いつかはあの距離が縮まる日が来るのだろう。
三歩が二歩、二歩が一歩に。
たとえ、このいくさの帰趨が誰にも分からぬままであったとしても。乙女と騎士とがともに並び立ち、歩いてゆくようになるまでにそう時はかからぬはずで。
視界の片隅に、回廊の角を曲がってこちらに歩いてくるふたりの姿が映った。
さて、俺たちは知らぬ顔だぞと壮年の兵士に促され姿勢を正したものの、どうやらそれは無理難題であるらしいと若い兵士は悟る。
もう少しゆっくり歩いてくださいと訴えるダウフトに、脚の長さが違うからなと応じる騎士。ええどうせギルバートの一歩はわたしの二歩三歩ですっ、とふくれる娘の声を耳にして、言い出しっぺの相棒が既に肩を揺らしているのを見てしまったからだ。
はてこの先、どうやって笑いをこらえつつ乙女と騎士に礼をしたものか。
脚なんて、長ければいいってものじゃないんですと悔しまぎれに言う砦の聖女と、おぬしの場合はそれに輪をかけてのろいからなとのたまう騎士。
ギルバートのいじわると、顔を真っ赤にして抗議するダウフトの声が近づいてくるのを耳にしつつ、若い兵士は相棒とともに笑いを抑えるのに苦労するのだった。
(Fin)
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