Tha geol agam ort.
初夏の日射しがまぶしい、ある日のこと。
さわやかな風に髪を遊ばせながら、回廊にたたずみ中庭の花々を愛でていた琥珀の騎士は、軽やかな足音に振り返りました。
「どうなさいましたか、ダウフト殿」
秀麗な面差しを彩る微笑みは、きょうも老若問わず多くのご婦人がたをうっとりとさせています。最近砦へ奉公に上がったばかりの小間使いが、ひとめ彼を見るなり幼い恋心をそっと胸に灯したほどです。
ありゃ単に外面がいいだけだ、見た目にだまされるんじゃないッという<狼>たちの主張は、ご婦人がたの鼻息にあえなく吹き飛ばされてしまうのが常でしたけれど。
「すこしお話してもいいですか、リシャールさま」
緑の瞳をくるめかせながら問いかけてきた聖女さまに、騎士は貴婦人に捧げる礼をもって応じます。
「姫君の仰せとあらば、たとえ最果ての地にあろうとも疾く参じてごらんにいれましょう」
「もう、リシャールさま」
大袈裟ですと頬を染めた娘さんへ、照れずともよいでしょうと笑う騎士。その表情には、アーケヴの佳人たちを捉えて放さぬであろうあまい熱情よりも、包み込むようなあたたかさだけが満ちています。
「曇りなき御心を、騒がせることでもありましたか」
問いかけながらも、琥珀のまなざしが案ずるようなひかりをのぞかせました。こと不器用さに関しては他の追随を許さぬ幼馴染が、またもや砦の姫君をがっかりさせるようなことをしでかしたのかと思ったからです。
「いいえ。ギルバートに書き取りを習っていました」
明るく答えた娘さんに、どうやら自分の憶測が杞憂であったと知り、琥珀の騎士はほっと息をつきました。
お互いの間に横たわる、山ほどの用事をかいくぐり。黒髪の騎士が、娘さんに簡単な読み書きを教えるようになってから数か月が経っていました。
砦であれば書庫の窓辺、穏やかな陽が降り注ぐ席で。いくさ場であれば、野営地の地面に木の枝で。
アーケヴで使われる表意文字と、ひとやものの名前に簡単なあいさつ。はじめに黒髪の騎士が表わしてみせたことばを、緑の瞳で真剣に見つめていた娘さんが、書いてみろと促されてペンや小枝を動かしていきます。
「おはよう」は「おあよ」。「こんにちは」は「こにちわ」。
そのこころねと同じように、とにかくのんびりとした学びかたではあるものの。一つ一つ、着実にことばを覚えてゆく娘さんの根気を、めずらしいことにやかまし屋がほめたほどです。
ただひとつ、誓約を意味するというある綴りを間違えては、かの騎士を憮然とさせることだけは相変わらずでしたけれども。
「でもそのときに、気になったことがあって」
「ほう、どんな?」
ことの次第によっては、南瓜の淑女の御許で書庫ののっぽ君と今後の対策を話し合わなくてはと琥珀の騎士は考えをめぐらせたのですが、
「書き取りの練習が終わったとき、ウィリアムさんが見えたんです」
ずいぶんと使い込まれ、表紙さえ取れてしまいそうな書き取りの教本と、いくつもの文字が書き散らかされた紙にペンとインク。それらをきちんと机の端に片づけて、娘さんと騎士がお茶を囲みながら一息ついていたときでした。
お邪魔してすみませんと、すまなそうに話しかけてきた若い学僧が抱えていた一冊の本。それを受け取って、ぱらぱらとめくっていた黒髪の騎士が、聞き慣れないことばを話しはじめたというのです。
「ギルバートとウィリアムさんは意味が分かっているようでしたけれど、わたしだけがさっぱりで」
ああ、そういう意味でしたか目を輝かせる学僧に、俺の故郷ではこうだなと、遠い北の空と海に育まれたことばを続けてゆく騎士。伸びやかでうたうような響きを宿した、娘さんのふるさとで交わされていたことばにはないものばかりでした。
「もっとたくさん字を覚えないと、わからないものなんでしょうか」
おそらく、懸命に聞き漏らすまいとしたのでしょう。慣れないことばをいくつか口にしては、首をかしげる娘さんの様子があまりにもおかしかったものですから、琥珀の騎士はつい笑い声をあげてしまいました。
「リシャールさま?」
「ああ、驚かせてしまいましたか」
大したことではありませんよと、琥珀の騎士は娘さんを安心させるかのように言葉を続けました。
「ギルバートとウィリアム殿が話していたのは、エクセターの古語ですよ」
あやつがよく口にしているあれですと告げられて、娘さんがなあんだと納得のいった表情をみせました。いつぞや<帰らずの森>で、仲間たちにからかわれた黒髪の騎士が早口でまくしたてていた姿を思い出したからです。
「よかった。ふたりともまじめな顔で話をしているから、魔法のことばか何かとばかり思っていました」
ほっとする娘さんに、つられて微笑もうとした琥珀の騎士でしたが。
「じゃあ、これもそうだったんですね」
じつにたどたどしく、娘さんが口にした思いがけないことばを耳にして。琥珀のまなざしが驚きに見開かれました。
「どうして、それを?」
問いかけた騎士に返ってきたものは、娘さんのほころぶような笑みでした。
「なんとなく、いいことばに聞こえたからです」
それを口にしたとき、黒髪の騎士がほんの少しだけやわらいだ顔を見せたからというのが理由でした。だからどんな意味か知りたくて、尋ねてみたというのですが、
「修練の時間だと言って、さっさと書庫を出て行ってしまいました」
ならばのっぽの学僧にと尋ねてみたのですが、いいえわたしも詳しくはとはぐらかされてしまったのだとか。
「そういう割には、ウィリアムさんったら目を泳がせていました」
砦やいくさ場で、<狼>や兵士たちが飛ばす率直な冗談ではあるまいし。どうしてわたしには教えてくれないのかしらと、娘さんはふくれます。
「なるほど。それで、俺を訪ねて来られたというわけですか」
「はい。リシャールさまならきっとご存じだと思って」
お忙しいのにごめんなさいと頭を下げた娘さんを、どうか気になさらずにとやさしくなだめながらも。あの強情っ張りのイワカボチャめがと、琥珀の騎士は心の裡で幼馴染を容赦なくこき下ろします。
おぬしが一言、ダウフト殿に伝えてさしあげれば済むことだろうにとぼやいたものの。それがたやすくできるような男であれば苦労はしないことを、揺りかごからのつき合いである騎士にはいやというほどに分かっていました。
娘さんが耳にしたものは、戦乙女エイリイの裔たちが剣に託した誇りとともに伝えてきたことば。今はなき小さな村で、母から子へとひそかに伝えられた隠し名と同様に、みだりに口にしてはならないことばでした。
それを知っていたからこそ、黒髪の騎士は娘さんの問いにあえて答えようとしなかったのですが――さぞ、うろたえぶりを悟られまいと必死だったのだろうなと、琥珀の騎士にはたやすく想像がつきました。
のっぽの学僧に至っては、それを口にするべき者は自分ではないと察したからこそ、あわててはぐらかそうとしたのでしょう。それは俺とて同じなのだがなと、琥珀の騎士はひそかにぼやきます。
「どんな意味なんですか、リシャールさま」
とはいえ、期待に目を輝かせている娘さんをがっかりさせるなど、琥珀の騎士にはとうていできぬことでした。さてどう答えたものかと考えかけた彼の脳裡で、ふと何かがひらめきました。
「どうしても知りたいのですか、ダウフト殿」
ではいいことを教えましょうと手招きすると、娘さんがわくわくとした表情で近づいてきました。その耳元へ顔を寄せると、琥珀の騎士は、小さな妹にないしょ話を打ち明ける少年のような表情で囁きました。
「エクセターに来れば、わかりますよ」
「なんだか、変わった答えですね」
当惑する娘さんへ、むしろなぞなぞですよと琥珀の騎士は片目をつむってみせました。
「じっくりと解を導いてみるのも、たまにはよいものですよ。ダウフト殿」
娘さんが耳にしたことばの意味を、すぐに答えるのはとてもたやすいことでした。
けれども自分がそうするよりも、娘さんみずからに北の古語に綴られたまことの意味を知ってほしいと琥珀の騎士は願っていました。そのむかし、エクセターの凍える冬風の中で、あらゆる望みをかなしみとともに心の奥底に埋めてしまった友が、いつしかやさしい春を望まずにはいられなくなっていたように。
「わかりました」
エクセターに行けば分かるんですねと、明るく答える娘さん。どうやら自分で答えを探すことに決めたらしいと察して、琥珀の騎士はやわらかな微笑みとともにつけ加えました。
「ですが、もしエクセターにいらしても、道ゆく人間を片端からつかまえてたずねてはいけませんよ」
「どうしてですか、リシャールさま」
「いや、それは」
風に舞う林檎の白い花や、草はむ羊たちにすらことばの意味を問いかけかねない娘さんを見て。いったいおまえは何をしていたのかと、故郷の人々から心底呆れられている友の姿が脳裏をよぎったのですが。
「それもエクセターに来れば、わかることです」
にこやかに応じながらも、十重二十重に守られた野の花を、どうやってかの地へお連れするかがまた思案のしどころだなと、琥珀の騎士は新たなたくらみをめぐらせるのでした。
それから数日後、<狼>たちの詰所にて。
芋と玉ねぎの山をそっちのけに繰り広げられた、娘さんたちの弾むようなおしゃべりの最中に、ダウフトさまはどちらに旅をしてみたいですかと金髪娘に問われた守り姫が、エクセターですとそれは無邪気に答えたものですからさあ大変。
手に手をとって月夜の道をというならば、もう少し秘密と浪漫に満ちあふれてだなとか、勇気と無謀とは似て異なるものですぞダウフト殿だとか。いたいけな娘さんを言葉巧みにたぶらかした挙句に、いずこともなくさらってゆこうとは何という男かきさまはだのと、仲間たちの暑苦しい騒ぎに晒されて。
「俺は知らんッ」
どうしてそういうはなしになるんだと、己が無実を主張する黒髪の騎士を右に見やり、
「エクセターなんて、行ったら二度と帰ってこれないぞダウフトっ」
デュフレーヌのほうがずっと暮らしやすいぞと、断固反対を訴えたわがまま侯子が、金髪娘や赤髪娘に適当にあしらわれるさまを左に眺めやりながら。
「しばらく、このままにしておくか」
面白そうな流れになってきたことだしと呟いて。
今やすっかり、いにしえの賢王のもとから一の姫を連れ去っていった狩人のごとき扱いを受けている哀れな男にわずかばかりの慈悲をと、琥珀の騎士はそっと<母>へのしるしを切るのでした。
(Fin)
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