役に立たぬものはなし
ふうと溜息をつきながら、果物売りの親爺は店の惨状を見渡した。
ひとが見れば、店と呼ぶのもおこがましい簡素なつくりの屋台にしかすぎなかろう。けれども果物売りが父と母から、さらにはその父と母から受け継いできたちいさな王国が、いまや滅びの危機に瀕しようとしていたのだ。
そんな親爺を嘲笑うかのように、きいきいと聞き苦しい声を上げながら、柘榴にかじりついているのは一匹の小鬼だった。数日前から現れて、自慢の果物たちを貪欲さの赴くままに次々と食い荒らしている。どうやら一度決めた縄張りに固執する習性があるらしく、いくら追い払っても、イワカボチャで殴り倒しても、懲りることなく親爺の店に居すわりつづけている。
ああ、知り合いに頼みこんで、ようやく仕入れることに成功したシシリーのオレンジが。オードが焼け野原になっちまった今、あそこのライムはたいそうな貴重品だっていうのに。
いっそ売り場を変えようとも思ったが、幼いころからなじんだこの場所を離れるのはどうにも辛い。下手をしたら、勝手に河岸を変えたうえに商売の邪魔をしたと、ほかの商人たちとのいらぬ摩擦を生みかねない。
これじゃ商売あがったりじゃねえか、と天を仰いで<母なる御方>へとみずからの窮状を訴える親爺。
爪に火を灯すよな暮らしの中、けなげに家計を切り盛りしてくれるうちの奴に、今年くらいは新しい服を買ってやりたかったのに。片言で「とうちゃん」と言えるようになった、かわいい坊主のちっちゃな足に似合う靴を見てやりたかったのに。
「なんだい、日陰の瓜みたいなしけた面つらしやがって」
耳に届いたのは天の声か。振り返った親爺の視界に飛びこんできたのは、となりの商売がたきのいかつい面だった。
「何だ、てめえか」
放っといてくれと言わんばかりに背を向けようとした果物売りに、だったらそのままいじけてやがれと、商売がたきは容赦のないことばを返す。
「こんな調子だ、あいつに関わったところでろくなことにゃなりませんぜ。騎士さま」
そう商売がたきが誰かに話しているのを耳にして、そうっと後ろを振り返ってみた果物売りの目が丸くなる。
「旦那」
見覚えのある顔に、思わず安堵の声を上げてしまう。愛想のなさが玉に瑕、とおかみさん連中が評する黒髪の騎士と、緑の瞳を人なつっこそうにくるめかせている娘がそろってその場にいたからだ。
「どうさなったんで。エクセターの林檎でしたら来週には」
入ってくるかもと言いかけて、親爺はにわかに悲壮な顔つきになる。砦に届けるよりも前に、いま目の前でシシリーのオレンジを貪りはじめた忌々しいやつに、ぜんぶ食い尽くされてしまうのが関の山だというのに。そんな彼の胸の裡を読み取ってか、騎士が静かに口を開いた。
「通りを歩いていたところを、偶然声をかけられた」
「おじさんが困っていることを教えてくれたのは、隣のおじさんなんですよ」
ふたりの口から告げられた真実に、そいつぁ言わないでくださいと何度もッ、とたちまち真っ赤になった商売がたきの顔をぽかんと見つめて、
「魔物も逃げ出すような面のわりにゃ、おまえいい奴だったんだな」
「やかましいッ」
てめえんとこの売りもんを食い尽くしたら、つぎは俺のところに来るだろうがと憎まれ口をたたきながらも、
「小鬼ていどでへこたれてるようじゃ、この町で商売なんざできるわきゃねえだろうが」
照れ隠しとばかりに啖呵を切った商売がたきに、おうそうだったなと目を輝かせた果物売り。互いにがしりと手を握り、芽生えたばかりの友情を守らんことを誓いあうふたりに喝采を送る人々のなか、よかったですねと心からの祝福を述べる娘。じつに能天気きわまりない周囲の空気をよそに、騎士はたいそう冷徹な表情で魔物に近づいてゆく。
「ギルバート、どうするんですか」
てこでも動く気はないようですよと問いかける娘には応じずに、騎士が魔物の目の前に突きだしたのは、物入れから引っ張り出した一枚の紙切れだった。
人間ふぜいが何をしに来たとばかりに、どろりと眠たげな目を騎士へ、それから紙面へと向けた魔物だったが。
市場じゅうにとどろいたのは、けたたましい恐怖の叫びだった。
人々の驚愕と悲鳴と混乱とを振り切るかのように、骨と皮からなる醜悪な翼をばたつかせ、あたりに生臭い風を巻き起こしながら宙へと逃れ去ろうとした魔物の頭を、みごとに直撃したのはイワカボチャだった。白目を剥いて、地面にぼたりと落ちた魔物を冷ややかに一瞥すると、若い騎士は背後にいた人物へと振り返り優雅に一礼する。
「協力いたみいる」
「なぁに、うちの売り物のいい宣伝になりまさぁ」
斧でかち割らなくてはならぬ美味を腕に抱え、野菜売りの親爺がからからと笑う。果物屋に取り憑いた魔物にゃ効かないらしいねえと、ここ最近イワカボチャをめぐる評判がどうも芳しくないことに、たくましい見かけとは裏腹に繊細な心を痛めていたからだ。
「とまあこんな調子だ、命中させるにゃこつってもんが必要よ。どうだいひとつ」
騒ぎを見物にきた人々を相手に、ちゃっかりと売り込みをはじめた野菜売りを、娘が呆れた表情で見やる。
「や、やったぞ」
「こ、これで坊主に靴を」
あっけない結末に唖然としながらも、魔物が退治された喜びをじわじわと噛みしめあうふたりの果物売りに差し出されたのは一枚の紙。
「これを店先に吊るしておくといい」
砦の長老がしたためた、魔物除けのありがたい護符だと大まじめな顔で告げた騎士に、そりゃもう喜んでいただきますともと果物売りたちは押し頂くようにしてそれを受け取る。
「いったい、何て書いてあるんですか。旦那」
興味津々で問いかけた果物売りに、それを言っては効き目が薄れるとひとこと返すと、若い騎士は行くぞと娘を促した。気絶した魔物を捕らえんと、砦の兵士たちがこちらに駆けつけてくるのを視界の隅にとらえたからだ。
「またごひいきに」
林檎が入ったらお届けにあがりますからねと、去りゆく騎士に向かって声を上げる果物売り。娘に興味を覚えたらしく、売りこみ以上の熱心さで彼女に話しかけようとする若い菓子売りを無言で威圧しながら、通りの人混みへと消えてゆく男をしばし見やり、
「相変わらずだなあ」
呆れた調子で呟いた親爺に、なんだそりゃともと商売がたきの友が目を丸くする。いや実はなと言いかけて、果物売りはふと浮かんだ案にぽんと手を打ち合わせる。
「よう相棒」
「おう、なんだ」
「助けられたばかりで、頼みごとを増やして悪いんだが」
ちょいと聞いちゃくれねえかと頼んでくる友の表情が、たいそう真剣なものであることに気がついて。もと商売がたきは何なりととうなずくのだった。
「ギルバート、さっきの護符ってほんとうに効くんですか」
砦に向かう道すがら、先ゆく騎士にようやく追いついたダウフトが問いかける。
「確実だろうな」
こともなげに言ってのけるギルバートの表情に、緑の瞳をじっと向ける村娘。めったに感情を表わすことのない男の横顔に、何やらいたずらに成功した子供のような表情が見え隠れしていることに気がついたからだ。
「ギルバート、ちょっと嘘をついているでしょう」
長老さまが書いたなんてと、じっと睨んでくる娘に、黒髪の騎士は悪びれるふうもなく答えてみせた。
「半分は嘘、半分は真実だな」
アーケヴで主に使われていることばをリャザン読みに綴り直し、かの教国で使われている独特の表意文字、その順番をガスパール老が決めたある法則に従って綴ったものだと告げる騎士に、半ば頭がくらくらしそうになりながらもダウフトは問い返す。
「どうして、そんな回りくどいことをしたんですか」
「簡単に読まれては困るからな」
ふもとの町には、あちこちの町や国から訪れる人々もいる。中には、数カ国語を修めた者とて少なくはない。そんな彼らが、あれを目にしてしまったら心底気の毒というものだろうと、ギルバートの表情はいたく真剣だ。
「あの、気の毒って」
問いかけたダウフトに、素知らぬ顔をしてみせつつも、
「へぼ詩人も役に立つ」
ギルバートのいらえに、すべてを悟ったダウフトが恐怖に目を潤ませて後ずさった。
飛ぶ鳥をみな空から落とし、魚が白い腹を見せて浮き、馬たちが自由を求めて馬房を蹴破ってゆくランスの市長による情熱の詩を、よりによって魔物退治に使うなんて!
「あれ一枚とはいえ、なかなかの効き目だった」
ささやかながら親爺への礼になればいいがとのたまう男を、信じがたいおもいで見つめる村娘。どうやら騎士は、あの名状しがたき何かを放つ詩を活用する方法はないものかとまじめに考えているらしい。
「町中で騒ぎを起こした不届き者に読み聞かせるか、それとも広場で読み上げさせるか」
「そんなひどいおしおき、やめてくださいっ」
「口ばかり達者などこかの小僧や、聞きわけのない聖女のしつけにも」
「い、いじわるッ」
目を潤ませて、ぽかぽかと殴りかかってくるダウフトの拳が、鎖かたびらに当たって傷つかぬようにかわし、本気でやるか真に受けるなとなだめながらも。レオなら一度くらい試してみても罰は当たるまいと、じつに弟子思いな考えをめぐらせるギルバートだった。
ところが後日のこと。
市長の詩をさんざんこき下ろした呪いか、剣抱く乙女にいじわるをした天罰か。
城壁の護りに当たっていた黒髪の騎士に、風に乗って届いてきたのはふたりの男の声だった。
「旦那ーっ」
騎士の姿を見とめて、嬉しげに手を振ったのは何とふたりの果物売り。馬に引かせた荷車の上には、オレンジや林檎がこれでもかと積まれているではないか!
「こないだのお礼ですよ、嬢ちゃんといっしょにどうぞーっ」
「こんだけありゃあ、たらふくエクセターの味を堪能してもらえますぜ」
心からの善意に顔を輝かせながら、陽気に声を張り上げ手を振ってくるふたりの果物売り。どうやら商売が元通りにうまくいったらしいと察したものの、
「どういうことか説明してもらおうか、ギルバート君」
「た、食べ物で釣ろうったって、そうはいかないからなッ」
たいそう嬉しげな笑みを浮かべて肩に手を置いた幼馴染と、仇とばかりに睨みつけてくるかわいげのない弟子との狭間にたたずみながら。
いったい何ごとかと、あちこちから顔を覗かせはじめた砦の人々を見やりつつ。あの親爺どもをどうやって黙らせたものかと、新たな苦悩の海に投げ出される騎士だった。
そんなわけだから、彼は知るよしもない。
市場に並ぶ店先のあちこちで、はらりはらりとひるがえる「ありがたい護符」。
亭主に代わって店をあずかる果物売りの女房が、こんどうちのひとが新しい服を買ってくれるんですよと頬を染めて話すのを聞きながら。よかったですねと笑ってうなずいた、お忍び中の守り姫の腕に抱かれた坊やのちっちゃな足を、それはかわいらしい一足の靴がやさしく包みこんでいたことを。
(Fin)
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