男はつらいよ


 森を渡る凍えた風が、ほんのすこしばかりぬくみはじめたある日のこと。


「ああ、何てことでしょう」

「どうしましょう」

「もし――もしリシャールさまに万が一のことがあったら」

「わ、わたくし。身の程もわきまえずに、あんなご無理をお願いしてしまって」

「まあ、泣かないでブランシュ」

 まるで取り返しのつかぬ罪を犯してしまったかのように、わっと泣き崩れる奥方づきの侍女を、鼻息が荒いと評判の金髪娘は力強く励まします。

「わたしたちにできるのは、リシャールさまの一日も早いご快癒をお祈り申し上げることでしょう」

「そうよ。仕立て屋のアンヌおばあさんなんて、娘さんたちやお嫁さんたちと一緒に聖堂へ百回お参りしたっていう噂よ」

「恥ずかしいからやめてくれって、息子さんたちやお婿さんたちが泣いて止めたそうだけど」

「乙女心を解さない野暮息子どもがって、逆におばあちゃんに鼻であしらわれたんですって」

「まあ、ほんとう?」

 先ほどまでの、深刻な雰囲気はどこへやら。

 嘘かまことか分からぬ噂話に、たちまち興じはじめた娘さんたちの声を窓の向こうに聞きながら、

「我が砦と町のご婦人がたは、まことにたくましい限りだな」

 施療室せりょうしつの寝台に横たわってもなお、さわやかに笑ってみせた琥珀の騎士に、気障なことをほざいている場合かと呆れ顔で応じたのは、戦友の見舞いに訪れたお調子者と<熊>どのでした。

「さっさと治らんと、じいさんたちの訳の分からん研究とやらの生贄にされるぞ」

「そうだな。そろそろ独り寝にも飽きてきたころだ」

 まじめなのか、ふざけているのか。よい子の騎士見習いたちには数年ばかり早いはなしを、さらりと口にする琥珀の騎士に、思わず決闘を申し込みたくなったお調子者でしたが。

 パン屋の跡取り娘から聞かされた、花売りのアメリー嬢に絡んだごろつきたちを見舞った惨劇を思い出し、世の中には決して侵してはならぬ禁忌があったなと<母>へのゆるしを口にします。

「それはそうと、何故おぬしがここへ担がれるはめになったのだ」

 至極もっともな問いを発した<熊>どのへ、いやそれがと、琥珀の騎士は彼にしてはめずらしく悩むような表情を見せました。

「先日、奥方が取り寄せた<神の糧>があっただろう」

「ああ、あれか」


 はるかなる砂漠のくにシェバから運ばれてきた木の実にあれこれ手を加えてできあがった、とろりと薫り高い褐色の飲み物。

「皆がいつも懸命に働いてくれますゆえ、砦も町もたいそうなにぎわいに満ちておりますよ」

 これは殿とわたくしからのささやかなお礼ですと、奥方さまが砦の皆や町の人々へとふるまった、みごとな服地や貴重な薬草、おいしいお菓子や透き通った葡萄酒のなかに、このめずらかな品も含まれておりました。

 竜にも癒せぬ何とやらにも効くらしいと、砦の長老たちが適当にうそぶいた珍説が、いまだうら若き乙女たちの心に強く残っていたのでしょうか。

 そなたは何を所望しますかと問うた奥方さまに、頬を染めてもじもじとしながらも。あの薫り高い飲み物をいただきたいのですと、勇気を振りしぼってお願いをした娘さんがたいそう多かったのだとか。


「その中には、もちろん我らが守り姫もおられたな」

「乙女御が抱えし杯のゆくえは、尋ねるが野暮というものか」

 呟く髭面の巨漢に、そういうことだと片目をつむる琥珀の騎士。それがおぬしがひっくり返ったこととどう関係があるのかと問おうとしたお調子者でしたが、

「ダウフト殿に加勢して、どこぞの朴念仁を生け捕りにして引き渡したあとで、俺もレネ殿やマリー殿から勧められてな」

「ほう」

「それからブランシュ殿にベアトリス殿、テレーズ殿にヴィオレッタ殿。ちょうど奥方を訪ねておられた、レスター家のグウェンドリン姫とアデラ姫とロザモンド姫にも勧められて」

「……ほう」

「町に出たところで、聖堂のアドリーヌ殿と小間物通りのジャンヌ殿、メナール家のナディーヌ姫、カドール卿の姉君イニッド殿、<狼と牝鹿亭>のエリサ殿。最後は仕立て屋のアンヌ殿のところで力尽きた」

 その後のことは覚えていなくてなと溜息をつく琥珀の騎士を、鉛色の曇天よりも重苦しい沈黙とともに見やりながら。

「……いま無性に、こやつに闇討ちをかけたいと思ったのは俺だけか」

「応」

 世の中とは、とかく意のままにならぬものではありますが。

 こうもあからさまに差をつけられると、同じ男子として言いしれぬ寂寥感さえ覚えます。この笑顔にだまされるんじゃないッ、と声を大にして叫びたくもなります。

 けれども実行するはたやすくとも、まあいやね男のやっかみなんて、器の小さいことと、当のご婦人がたによる情け容赦のない反撃を食らったあげくに一敗地にまみれるのは目に見えています。勝ち目なしです。

 こんな理不尽なことがまかり通っていいものか、いやいいはずがないッと悶々とするふたりの男をよそに、琥珀の騎士はさてそろそろ戻るかと寝台から華麗に降り立ちました。

「勇ましき姫君の戦果も気にかかることだし」

 手早く身支度を調えて、剣を佩き。

「いやしき我が身を案じてくださる、ご婦人がたの御為にも」

 口にする者によっては、寒気を覚えかねないことばをさらりと言ってのけると、琥珀の騎士はさあ詰所に戻るかとふたりの騎士を促します。いつまでもこんなところに留まっていては、どうじゃ新しい薬でもと三人まとめて長老たちから遊ばれかねなかったからです。

 そんなわけで、琥珀の騎士の後を不承不承ついていったお調子者と<熊>どのでしたが。


「リシャールさま」

 施療室の扉を開けたとたん、三人を待ち受けていたのは黄色い歓声でした。

「お身体のほうはもうよろしいんですの、リシャールさま」

「皆とても心配いたしましたわ。リシャールさまがいない間は、まるで太陽が消えたかのようで」

「わ、わたくし――ほっとしたらまた涙が」

 すみれ色の瞳を潤ませた侍女の手をそっと取り、どうか泣かないでくださいと、琥珀の騎士はやさしく笑いかけました。

「塵芥のごとき我が身ゆえに、美しい瞳を涙に曇らせることなどありませんよ。ブランシュ殿」

「ああ、リシャールさま」

 なんておやさしいのでしょうと、感極まるあまりにふらりと倒れかかった侍女の細い身体を、琥珀の騎士は咄嗟に支えました。

「すぐに婦人部屋へ。こちらの荒療治では、たおやかな乙女にはあまりにも酷というもの」

「は、はい」

 騎士の腕に身を預けたまま、頬を染めてうっとりと呟く仲間の娘の思わぬ幸運に、居並ぶ乙女たちからまたも黄色い声が上がります。

「まあ、ブランシュったら」

「なんてうらやましいんでしょう」

「ああ、わたしも倒れたい」

 思いきり本音をのぞかせた金髪娘を、しばし上から下まで見まわして。

「……どこからどう見ても」

「レネ殿なら案ずることは」

 わがまま侯子を実力で叩きのめし、顎でこき使っている金髪娘の前では決して口にできないことをそっと呟いて。

 お調子者と<熊>どのは、あたりを囲む乙女たちへ優雅な物腰で応じている琥珀の騎士を、別にうらやましくなんかないんだからねッと、暗い怨念すら漂わせながらじっと睨むのでした。


(Fin)

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