誰も知らないここだけのはなし
むかしむかし、世界がまだ不思議と魔法に満ちあふれていたころのことです。
「ただいまあ」
「まー」
元気いっぱいに家の中へ駆けこんできた幼い娘たちを抱きとめて、ああおかえりと出迎えたのはひとりの騎士でした。
「危ないところへはいかなかっただろうね?」
「うんっ」
とうさまとのおやくそくでしょと返事をすると、北の陽光をつむいだような金髪とつぶらな瞳も愛らしい姉妹は、おみやげと手にしたものをおとうさんに見せました。
「あざらしから、おさかなもらった!」
「たの!」
「……」
それぞれ愛らしい手に握られた、とれたて新鮮な海の幸に笑顔をひきつらせたおとうさんをよそに、姉娘はかあさまにも見せてあげようねと妹の手を取り仲良く駆けていきます。
冷たい潮風に当たって風邪をひかないようにと、心をこめて作られた上着の襟元からのぞくあざらしの毛皮。いとけない幼子たちに合わせてましろな毛並みをそろえたそれは、伝承のかなたに忘れ去られた海のくにであつらえられた魔法の品でした。
「殿」
ふいに目の前へと現れた巨大な姿に、思わず飛び上がりかけた騎士でしたが、どうにか息を整えてご苦労さまとねぎらいました。
「娘たちがわがままを言って困らせただろう」
「姫君がたにあらせられましては、けしてそのような」
「上の子がこの間、鮫と追いかけっこをしたと言っていたよ。危ないことはするなと叱っておいたから」
「案ずるには及びませぬ」
ぎょろりとした目を鋭く光らせて、海の眷族たる
「一の姫に牙向けんとした不逞の輩、我が手にて成敗を」
そう締めくくった巨漢に、騎士は今朝がた浜辺に打ち上げられ漁師たちを騒然とさせた巨大な鮫を思い出しました。
半死半生の彼を見て、今夜は鮫料理かという漁師たちの呟きを聞くなり、必死で砂をかいて逃れようとしていたならず者の哀れを誘う姿に、若い父親の脳裏にはある一族の姿が不吉に浮かび上がったものでしたけれども。
「ま……まあともかくひと休みしておいで。スパイス入りの葡萄酒を温めてあるから」
「ありがたき幸せに存じます」
古くてちいさな屋敷にはまるでそぐわぬ、宮廷ふうの優雅な一礼をかえすと、寡黙な男は厨房のほうへと歩み去っていきました。あらやだアルガさんたらいつ来てたの、嬢ちゃまたちがいっしょにおやつを食べようって待ってるのよと、彼の姿をみとめた小間使いたちが口々に陽気な声をあげるのが聞こえてきます。どういうわけかこの海の丈夫は、陸の娘さんがたの興味をいたくそそるようでした。
どうやら皆にはばれていないらしいなと、彼と彼の家族だけが知るひみつがきょうも守られたことに、騎士が安堵の息をついたときでした。
「殿」
このうえもなく優雅な足取りで、茶器を載せた盆を手に現れたのはうるわしき佳人――かつて騎士が海辺で出くわしたあざらし娘でした。
「どうなさいましたの、お疲れのご様子ですけれども」
わたくしがお持ちいたしますと慌てる小間使いに、夕餉の材料をそろえておくよう言いつけると、若い奥方さまはそういえば姫たちがとお茶の支度をしながらはなしを続けます。
「お兄さまから魚をいただいたそうですわ。こんどお礼を申し上げませんと」
「義兄上だったのか、あざらしは」
世継ぎの君がそんな気さくに出歩いていいのかと疑問を呈した夫君に、陸とはしきたりが違いますものと若い奥方さまは微笑みます。
「旗指物をたなびかせ、お仕着せに身を固めてしゃなりしゃなりとゆくが陸のやりかたと存じておりますけれど。わたくしたちにはあれさえあれば十分ですから」
「……あの毛皮か」
いやだやめてくれと泣き叫んだにもかかわらず、ぼってり集団に銀灰色の毛皮に押しこまれ海ふかき都へと連れ去られ――珊瑚と貝と海草の冠を戴いた婿どのとしてあざらし娘の傍らに立ち、白亜の王宮の露台から広場に集ったあざらしたちの歓呼に応えるはめになったときのことがありありとよみがえってきます。
思えば、あざらし娘が毛皮を脱いだところを見てしまったのがすべての元凶。たとえ彼女の一族に踏みつぶされ、ぼろきれとなって波間にただようはめになろうとも、全力で逃げておくべきだったのだという考えが幾度となく頭をよぎりましたけれども。
陸の伝承に<あざらし女房>と言い伝えられる、海辺のちいさな館へと嫁いできた若い奥方さまの美しさとかいがいしさときたら、館はもとより近所でも大いに評判になるほどでした。
料理に育児に掃除に洗濯に、陸の女たちが行うあらゆる家事を奥方さまはたいそうみごとにこなします。くわえて、古くから騎士の家に仕えてきた使用人たちの心をも、ふしぎな海の魔法でがっちりと掴んでしまったかのようでした。
今まで家事全般をとりしきってきた婆やが、若奥さまがおいでならばすべて安心にございますと口にしたとき、それは館に仕えるものたちすべてのおもいを代弁していると言ってよいぐらいでした。
とはいえ、壮麗な海の都であざらしたちの姫としてかしずかれていた彼女が、いったいどうやって陸の家事なぞ覚えることができたというのでしょうか。
かつて新婚まもないころ、できたてあつあつの羊飼いのパイを前に首を傾げた夫君に、あら簡単なことですわと海から来た姫君は微笑みました。
「難破した船乗りさんを助ける代わりに、陸で起きているいろいろなことを聞いたのです」
パイもそのときに習いましたと告げた奥方さまに、若い騎士はどうも最近、目の前の海で救助された人々が、あざらしに救われたと口々に語った理由を知りました。まあたいていは、嵐の海に飲みこまれた船乗りを救うと伝えられる<深い海に住む男>にでも会ったんだろうよと、漁師たちや船乗りたちに一笑に付されておしまいになっていたのですけれども。
「わたくしだって、王家の姫にふさわしい教養はそれなりに身につけておりますわ。踊りに歌に刺繍に裁縫にお料理に」
あとはよきお婿さまをお迎えすれば完璧にございますと、教師たちからも太鼓判を押されたんですからと頬を染めた奥方さまに、なのにきみが引っかかったのは海辺をほっつき歩いていた俺だったなと騎士は嘆息します。
「まさかあざらしたちの誰もが、きみが陸の男のもとへ嫁ぐとは思わなかっただろう」
「……後悔なさっているの。わたくしが来たことを」
「いや、断じてそんなことは」
奥方さまの瞳に浮かんだ悲しげなひかりに、若い騎士は彼女が来てくれていかに自分が諸手を挙げて喜んでいるかを、その日一日をかけて全力で証明するはめになったものでした。
そりゃはじめこそ、あっという間にあざらしの婿にされてしまったことに大いに慌てふためきましたけれども。陸と海とのちょっとした風習の違いから起こる諍いと仲直りを交えつつ、若い騎士とあざらし娘は互いに手を取り合いこうして家庭を築き上げてきたのです。
よく兄上のもとに来る気になったなあ義姉上はと弟たちが心底不思議そうにのたまい、お兄さまの唯一にして最大の勲こそお義姉さまねと妹たちがうなずきあうさまは、どういう意味だとちょっぴり腹立たしくもありましたけれども。
館の者たちから蝶よ花よと大切にされている娘たちはすくすくと育ち、今では孫君にめっぽう甘い海の王の命により、鯱をも張り倒す腕前を誇るアルガを守り役として、毎日あざらしに扮して海へ遊びに出かけていきます。ゆりかごで無心に笑う息子があんよを始める日が一日も早く来ないものかと、陸のものたちも海のものたちも待ちわびています。
ついこの間も、甥っ子にどうかなと仔馬の手綱を引いてきた弟たちに、まだ一歳にもなっていないだろうがとぼやいたばかりでしたが。
我があるじよりことづかってまいりましたと、寡黙なアルガが差し出した包みを開けてみれば、どう見てもおとなあざらしのものとしか思えないみごとな銀灰色の毛皮が鎮座しているさまに、海の都の婿殿は思わず椅子からずり落ちそうになったものでした。
こんな調子で、陸と海とを奇妙なえにしでつなぐはめになった彼の毎日は慌ただしく過ぎていきましたけれども、いつしかそんな日々を、何にも代えがたきものとして守り抜かんと誓う自分がいることに、騎士はあたたかな喜びを見いだしてもいたのです。
……さすがに恥ずかしかったものですから、そんなことは奥方さまの前で一言たりとも口にしませんでしたれども。
「そうだわ、お父さまからようやく例のものが届きましたの」
嬉しげに奥方さまが披露してみせたのは、ふたりの娘たちよりもちょっぴり小さなましろの毛皮。それがどうやらゆりかごにいる息子への贈り物だと気づいた騎士は、さすがにあちらはまだ早いからなあとおとなあざらしの毛皮を指し示します。
「お父さまったら、早くエリクを都に連れてくるようになんて無茶をおっしゃいますのよ。姫たちでさえ、二つを過ぎてからようやく海に潜りだしたというのに」
「よほどあの子の顔をご覧になりたいらしいね」
そう言いながら、子供あざらしの毛皮を受け取った騎士は、そこでふと何かを思い出すような遠い目つきになりました。
「どうなさいましたの、殿」
「そういえば子供のころ、海辺であざらしに会ったことが」
「あら。わたくしの親族とならば、つねに顔を合わせていたではありませんか」
そう指摘され、騎士はうっと言葉に詰まりました。彼の住む海辺一帯にいたあざらしが、じつは海の都の住人であったことを聞かされたのは、彼があざらし娘を嫁に迎えたあとのことだったからです。
「いや、そうなんだが――そのあざらしはもっと子供で、まっしろでふかふかだった」
七つか八つの時だったかなと、息子のためにあつらえられた魔法の品を手に騎士はひとり呟きます。
「漁師の銛に突かれたんだろう、尾に傷を負っていて」
波打ち際に打ち上げられて、心細げに鳴いていたあざらしの子を、たまたま通りかかった彼が手当をしてやったのだといいます。
「俺もまだ子供だったから、適当に薬草をすりつけてへたくそに布を巻き付けるしかできなかったな。おまけに何を思ったのか、妹にやろうと摘んだ花をその子にやって」
「春に咲く、あの赤い花ね」
そう告げた奥方さまに、騎士は不思議そうなまなざしを向けました。
「どうしてきみが知っているんだ」
「あら。毎年春がくるとわたくしがねだるではありませんか」
花を摘みに行きましょうってと笑った奥方さまに、騎士はそういえば彼女が丘いちめんを覆い尽くす花たちのなかで、とりわけ赤い花がお気に入りであることを思い出しました。不思議に思って問うたびに、海から顔をのぞかせたときに、この花がいちばんきれいに咲いていたからですわとはぐらかされてしまっていたのですけれども。
「さ、殿。お茶が冷めてしまいますわ」
「ああ」
ほんのりとハーブの香りが漂うお茶をようやく手に取った騎士に、何かつまむものを持ってきましょうかと奥方さまは告げました。
「夕餉の材料がそろったかも見てきませんと。今夜は腕によりをかけますから」
「くれぐれも、今朝の鮫でないことを祈るよ」
そうぼやいた夫君に、さあどうかしらと笑って部屋を後にした奥方さまでしたが。
扉を閉め背を向けると、くすくすと笑ったまま、奥方さまは長い衣装の裾をほんのすこしたくし上げました。
まっしろなかたちのよい足に、うっすらと残る傷跡。
銛か何かで突かれたような古傷をしばし見つめていた奥方さまは、やがていとしき背の君がお茶を楽しんでいる部屋の扉をやさしく見つめます。
「気づいていらっしゃらないのね、殿」
銛に傷つけられ浜辺に打ち上げられ、寒さと心細さに震えていたわたくしを、海風から守るように抱きしめてくれたのは幼かったあなただったのに。
手当てしてやるからと、巻きつけられた布のあまりの不器用さに、傷の痛みも忘れて呆れてしまったものだけれども。
こんなの食べるかなと、あなたが差し出した花の鮮やかな赤は、海に舞うとりどりの魚たちも深みに眠る珊瑚たちも持ってはいない色だった。
お父さまに連れられ都に戻ってから、足の傷を癒している間じゅう、わたくしが毎日窓辺に飾ったあの花を見つめていたことなどご存じないでしょう。とうとう花がしおれてしまったとき、わたくしはたまらなく悲しくなって泣いたのよ。
わたくしを傷つけた陸には行かせまいとなさった、お母さまの言いつけを破って何度もあの海岸を訪れたのも、もしかしたらあなたが浜辺を歩いているのではと思ったから。
「掟を破りしものは、愛する荒海を離れ陸で償うがさだめ」
まさか我が身にそんな災いがふりかかる――ましてや、人間の男に正体を見られてしまうなんて夢にも思わなかったけれども。
くしゃみをしたわたくしに上着を差し出して、陸の風をなめるんじゃないとあなたが言ったときに分かったのよ。
怪我をしたまっしろなあざらしの子を、布でぐるぐる巻きにした不器用な男の子こそがあなただと。あなたの目を、お顔を見たとき、あのときと少しも変わっていないのだわということがすぐにわかって、とても嬉しくて。
そうなったらもう、いてもたってもいられなくなって。
お茶目なお父さまの盛大な勘違いと、その場の成りゆきと勢いに乗じて、あなたを無理やり千尋の都に連れてきてしまったことは、ちょっぴり気が咎めるのだけれども。
「でもこれは、わたくしだけの秘密」
海辺のちいさな館に住む騎士さまにずっと焦がれてきた、海ふかき都の姫だけが知る秘密なのだから。
愛する海と同じいろをたたえた瞳をそっと伏せて、海だけが知る祈りのことばをそっと呟いた奥方さまのすぐそばで扉が開きました。
「どうなさったの、殿」
「いや、その」
つまむものよりも、きみの分も茶を淹れたからいっしょにどうかと思ったんだがと、これまた不器用に陸の騎士は続けます。
「味は保証できないぞ。妹たちからはいつもまずいと不評で」
「いいえ。あなたのお茶、わたくしとても好きだわ」
そんなあなたが、わたくしはまっしろなあざらしだったころからずっと大好きだったのですものと心でそっと呟いて。
千尋の海から来た姫君は、夫君が差し出した手を取ると、ふたり仲良く部屋へと入ってゆくのでした。
(Fin )
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