デュフレーヌ家の謎
「どうですか、レオ」
のんびりと問いかけた聖女さまに、彼女の手になるチーズのタルトを頬張っていたわがまま侯子は、心からの満足を笑みで表わしました。
何かを言おうと娘さんのほうを向いたのですが、そこで一度動きをとどめると、卓の傍らに置いてあったお茶の杯を取りました。ものを食しながら話すなどという、はしたなきおふるまいはなさいませぬようにという、爺やによる厳しいしつけのほどが窺えます。
「おかわりはあるのか、ダウフト」
一口お茶を飲んで、一息おいて。期待に目を輝かせたわがまま侯子に返ってきたのは、ごめんなさいということばでした。
「レオが食べたぶんで最後なんです」
そう告げた娘さんが指し示すほうを見てみれば。大きなお皿に載せられていた、これまた大きなタルトが影も形もなくなっているではありませんか。
「どうして」
あと三切れは入るぞと言いながら、わがまま侯子は八等分したはずのタルトの行方を数え上げます。
「ダウフトが一切れ、エクセター卿が一切れ、ジェフレ卿が一切れ、アネットとモリスがふたりで一切れ、じゃじゃ馬が一切れ、ヴァルターが一切れ、僕が一切れ」
あと一切れはと首を傾げたわがまま侯子の足元で、きゃんと愛らしい声が上がりました。
「セレスが一切れ」
ぷりぷりと尻尾を振っている白銀の狼姫に、自分にも分けろと雄弁に訴えるまん丸い金の瞳に根負けして一切れやったんだと思い出します。
「あんなにあったのにな」
ふてくされたわがまま侯子を、娘さんはやさしく諭します。
「次の出撃から戻ったら、レオの好きなものを作りますから」
「ほんとうか」
うれしい申し出に、けろりと機嫌を直したわがまま侯子は歓声を上げたのですが、
「分からない料理は、ノリスさんに聞きながら作ってみますね。ほうれん草のティンバルズとか、ひらめの蒸し煮マスタードソース添えとか」
いくつかの料理を挙げて見せた娘さんに、わがまま侯子の笑みがわずかにひきつりました。
金髪の幼子からこっそりと耳打ちされた「聖女さまのひみつ」を試した折に、無愛想な師匠との間に勃発した攻防戦がもたらした結末――卓に所せましと並べられた、エクセターとデュフレーヌの名物料理からなる軍勢を思い出したからです。
「で、でも美味かったぞ。母上が作ってくれたのと同じだ」
「お母さまと?」
目を丸くする娘さんに、わがまま侯子はうなずきました。
「母上の実家では、料理も淑女のたしなみの一つだったんだ」
デュフレーヌの侯子妃として、夫君とともに領地と人々を守る多忙な務めも負いながら。
そのようなことは料理人におまかせにと訴える侍女たちに、わたくしの母もしていたことですものと微笑み返すと、何ができるのかとわくわくしながら覗きこむ幼子をお供に料理にいそしんでいたのだとか。
「アーモンド入りオムレツとか、ジェムベリーのパイとか。シチューには人参が入っていたけど」
広い館を彩る、とねりこの一族だけが出入りを許されたみごとな庭。しつらえられた席に座し、きょうは何が出てくるのかなと穏やかに問うてきたおとうさんに、ないしょ! と答えてにこにこしているうちに。
さあ、できましたよ。
作りたての料理を載せたお皿を手にそう告げるおかあさんを、おとうさんとふたりで迎えることが、幼かったわがまま侯子には何よりの楽しみであったのです。
「そうだ、チーズのタルトもあったな」
「レオ」
鋼玉のまなざしによぎった翳りを察したのでしょう。案ずるような娘さんの表情に気づき、わがまま侯子はつとめて明るくふるまうことに決めました。
「そうだ、ダウフトに作ってほしいものがあるんだ」
しんみりとしかけた雰囲気を吹き飛ばすかのように、わがまま侯子は一枚の紙を取り出しました。
「小さい頃に食べたきりだからうろ覚えだけど、鶏料理と魚介料理と焼き菓子なんだ」
参考にと思って絵を描いてみたと言うわがまま侯子にうなずき、娘さんは目の前に置かれた紙を広げてみたのですが――
「何をしている」
厨房の一角で、広げた紙を前に悩んでいる娘さんに、修練後の軽い食事をもらおうとやってきた黒髪の騎士が問いかけました。
「新手のなぞなぞです、ギルバート」
えらく真剣な面持ちで振り返った娘さんに、大袈裟なことをと返そうとしたものの。
仔羊のローストを盗もうとした魔物を、鉄鍋と焼き串と揚げ油を駆使して叩きのめした料理長が、娘さんと向かい合って腰かけに座し苦悩しているさまに、さすがの無愛想もただごとではないと察したようです。
「ああ、エクセター卿」
視界の隅に騎士の姿を見とめ、厨房の長が顔を上げました。
「ダウフトさまが、絵を持って相談に見えたんですよ。デュフレーヌの坊っちゃんに頼まれたとかで」
困惑した面持ちで話す料理長に、門外漢の俺に分かるはずがと思ったものの。
ふと見えた絵をしばし眺め、それから続けてほかの絵にも目を向けて。胸の裡からこみ上げてくるさまざまな思いをかろうじて抑えつつ、黒髪の騎士は口を開きました。
「まさかとは思うが、おぬしが描いたのか。ダウフト」
「違います」
即答した娘さんが、ちょっとだけ黒髪の騎士を睨んだのは、広げられた絵のできばえを見れば無理からぬことでした。
「菱形の模様がついたきつね色の円盤に、爛れて崩れたプラムのような紫の塊が」
「し、失礼なッ」
背後から響いた声に振り向けば、そこには鋼玉の双眸で騎士を睨みつける少年の姿がありました。つかつかと三人の方へと歩み寄ると、黒髪の騎士から絵を隠すかのように立ちはだかります。
「ダウフトと料理長だけに見せようと思ったんだ。エクセター卿はあっちに行け」
「そっちの、溜池からぼうぼうと生えている赤い草は」
ああ、無情なるは背丈の差。聖女さまとさして変わらぬ若君がいかに立ちはだかったとて、黒髪の騎士には障壁にすらならなかったようです。
「海老だッ」
見れば分かるだろうと、闘志をみなぎらせつつも先ほどと矛盾したことを口走る弟子をよそに、黒髪の騎士はふたたび絵に目を向けたのですが。
なるほど言われてみれば、赤い草のようなものがどうやら海老のひげであることが分かりました。となりに描かれている黒い塊はたぶんムール貝、二重の輪はさしずめ
「何の謎解きだ」
額を押さえつつ問うた騎士に、レオの食べたいものですと娘さんが応じました。
「一枚目は、何となくオレンジのガレットだって分かったんですけれど」
そう言って娘さんが指し示したのは、菱形模様のついたまあるいきつね色。
「そうだ、確かにオレンジの香りがしたぞ」
満面の笑みを浮かべたわがまま侯子に、あの円盤は菓子だったのかと納得しつつも。半ば当てずっぽうな娘さんの推理に黒髪の騎士は呆れます。
「ならば、こっちの崩れた紫色は」
「鶏料理だッ」
愛すべき弟子の騒々しい主張をよそに問うた黒髪の騎士に、多分ですがと料理長は前置きをして応じました。
「野菜らしきものもいっしょに描いてあるんで、わたしゃ鶏のバスク風煮込みだと思うんですよ」
アーケヴではほとんど知られていませんが、シシリーやシエナ・カリーンなど南の海洋交易都市では広く人々に親しまれている、太陽の恵みをたっぷりと浴びた丸く真っ赤な野菜。それを濃厚なソースに仕立て、野菜と鶏とハムをじっくりと煮込んだおいしい一品なのだとか。
「アーケヴでは、ベランジェール伯家の先代さまが最初に育て始めたそうですよ」
「母上の実家だ」
驚くわがまま侯子に、料理人の世界にもつながりというものがございましてねと厨房の長は答えます。
「鶏のくさみを消すために葡萄酒を使うんですが、赤だとソースの色と混ざり合って、不気味な紫色になっちまうんですよ。わたしも一度失敗しましてね」
だからふつうは白を使うんですと告げた料理長に、
「じゃあ、僕の記憶違いか」
心もとなげな表情になったわがまま侯子を、意外にもなぐさめたのは黒髪の騎士でした。
「おぬしの母御が料理をしたとき、白葡萄酒が手元になかっただけかもしれん」
「とっさに、お母さまは赤葡萄酒を使ったのかもしれませんね」
わたしもときどきやりますものと笑った娘さんに、きのうの黒々とした豚のソテーがそれかと応じる騎士。
そんなふたりの姿に、いつもならば憮然としてばかりのわがまま侯子が、なぜかやわらいだ表情をのぞかせました。たとえおぼろな記憶のかなたにあったとしても、あたたかな陽光と笑い声に満ちていたひとときは、何にも代えがたいものでしたから。
「さて、問題はこれだ」
海老のひげやら黒い物体やら白い輪やらが表わされた謎の絵に、聖女さまと騎士殿と料理長とわがまま侯子はそろって首を傾げました。
「海老と貝と烏賊が鍋でのぼせていたことは確かか、レオ」
「間違いない。父上に海老の殻をむいてもらったからな」
「鍋の中が青く塗られているのは、お湯ですか」
塩ゆでかしらと口にした娘さんに、一瞬きょとんとした表情を見せて、
「いや、目にも鮮やかな青いスープだったぞ」
とんでもないひとことを、わがまま侯子は言い放ちました。
「……そんな料理があるんですか、ノリスさん」
何とも想像しがたいものを思い描いたらしい娘さんの問いに、料理長は思いきり首を横に振りました。
「十三のときから包丁を握ってますけれどね、わたしゃこんなきわもの料理は見たことがありませんよ」
「失礼な、きわものじゃないぞ」
烏賊も海老も貝もふつうだったし、スープの味も申し分なかったと、わがまま侯子は断固として己が主張を曲げる気配をみせません。
「サフランは何色でしたっけ、ギルバート」
わたし見たことがなくてと、たいへん希少かつ高価なスパイスを挙げて見せた娘さんに、黄の色づけに使うと黒髪の騎士は応じました。
「青や紫ならば、ヘリオトロープやすみれだが」
「だとしても、こんな色味は出ませんよ」
わたしら庶民には縁のない、騎士さまとか貴族さまの家に代々伝わる秘伝じゃないんですかとのたまった男に、俺の実家にあんなきわものはないと黒髪の騎士は断言します。
「ベランジェールの南に広がる、紺碧の海を表わしてみたと母上が嬉しそうに話すのを、父上が何とも言えない顔で聞いていたことまで覚えているぞ」
「そうだろうな」
常識を覆す色あいを漂わせる料理を前に、どうして普通に作ってこうなるのだろうかと生じた素朴な疑問。その傍らで、かあさまおいしいねと勇ましい食べ方を披露する幼い息子のゆくすえを思い、ひそかに苦悩していたであろう先の侯子の姿が偲ばれます。
「おぬしが作るのか、ダウフト」
そう問いかけられて、娘さんはたいへん困った顔になりました。
「オレンジのガレットと、鶏の煮込みは何とかなりそうですけれど。そのう、スープはちょっと」
レオのお母さまは、どうやってあれを作ったんでしょうと首を傾げる娘さんに、ベランジェールのエルヴィラ殿のおもいは、今となっては<母>のみぞ知るだなと騎士は嘆息します。
「殿さまのおうちって、いろいろ変わっているんですね」
エクセター家の人たちが、羊に蹴られるのも十分変わってますけれどと呟く娘さんに、己が家に代々伝わる何とも珍妙な呪いを思い出した黒髪の騎士は、言うなと苦悩混じりに呟くのでした。
さて、後日。
オレンジの香りただようガレットと、赤いソースにパプリカのおだやかな辛みを加えた鶏の煮込みが、いくさ場で思う存分に魔物たちを叩きのめし、早々に砦へ引き上げてきたわがまま侯子のお腹に収まることとなりました。
ただ。
デュフレーヌ家に伝えられた、紺碧のスープ・ベランジェール風に関しては、厨房でたくさんの野菜や魚介類を前に、料理人たちや娘さんがあれこれ悩んでいる姿が何度も見受けられたそうですが。
実際にあやしいスープが完成したのか、そうしてそれが砦の皆に饗されたのか。
この件に関しては、何ひとつ伝えられてはいません。
(Fin)
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