たまにはこんなことも


「まあ、すてき」

 日が西に傾きかけたころ、買い物客でにぎわう小間物通りを歩んでいた黒髪の騎士の耳に、弾むような声が届きました。

 振り返れば、なじみの小間物屋の店先で、聖女さまがご婦人がたに立ち混じり何やらのぞきこんでいます。こんな姿を目にするたびに、どこにでもいるふつうの娘なのだと改めて思うのですが、

「アイエス」

 砦の閉門が迫っていること、のんきに小間物なぞ眺めている暇はないことを、態度とかりそめの名で示しかけた若い騎士は、そこで娘さんが数ある品物の中から大切そうに手に取ったものに目を見張りました。

「あら、お目が高い」

 ゆっくり見ていってちょうだいと、店のおかみがにこやかに勧めたのは一本のリボンでした。指の幅ほどの細さにもかかわらず、きわめて繊細な模様を編み上げた雪白へ娘さんはあこがれのまなざしを向けています。

「アイルのレースよ。ずっと品薄だったけど、きょう入ってきたばかりなの」

「アイルの」

 娘さんが驚いたのも無理はありませんでした。

 アーケヴからはるか西。バレンツの氷海に浮かぶちいさな島で、寡黙な尼僧たちがひとつひとつ丁寧に編み上げるレースは<糸の宝石>と称され、国じゅうの淑女たちに珍重される品であったからです。町の市場で見かけるほうがむしろめずらしいのですが、どうやらおかみには独自のつてがあるようです。

「噂を聞いた奥さまがたやお嬢さまがたが、さっそく注文にいらしたわ。レスター家のロザモンドお嬢さまは、新しい衣装の飾りになさるのですって」

 おかみの言葉を耳にしたとたん、娘さんは急に考えこむような顔を見せました。

 希少なレースをおかみへ返すと、腰に下げていた物入れを探り小さな財布を取り出したのですが――中身を改めるなり、たちまちしょげ返ってしまいました。

「あら、どうしたの?」

「そっちの麻糸をください」

 繕いものに使う糸束を指し示した娘さんに、ほんとうにいいのとおかみは問いかけます。

「とても気に入ってくれたみたいなのに」

「ええ、でも」

 すてきなレースを求めるにはおこづかいが少し、いえかなり心もとない現実をにじませながらも。そよ風のいたずらで頬にかかった髪が、リボンなど飾れぬほどに短いと気づいた娘さんがよぎらせた表情を騎士は見逃しませんでした。

「端切れはあるか、おかみ」

 いきなり尋ねてきた若い男――それも、かわいらしい小間物などまるで縁のなさそうな<狼>に、居合わせたご婦人がたがぎょっとするのにもかまわず黒髪の騎士は続けます。

「濃青の亜麻布を。それから空色と朱色と常磐緑」

 次々と注文を並べ立てる騎士に、ようやく我に返ったおかみは少々お待ちをと、慌てて品物をそろえようとしたのですが、

「アイルのレースを、結わえることができる程度に」

 さらりと発せられたことばに、娘さんは思わず隣に並んだ騎士の横顔を見上げます。

「あら、<狼>の旦那ったら」

 ころころと笑いながら、小間物屋のおかみはさっきまで娘さんが懸命に見つめていたリボンを手に取りました。

「アイエスちゃんが気に入ってたの、ごらんになってたんですか」

「閉門が近い」

 冷然と返した、騎士の仏頂面に潜むものを見抜いたか。はいかしこまりましたとにこやかに応じながら、おかみはレースのリボンを注文どおりの長さに切りとりました。

「さ、どうぞ。旦那」

 ひらりと手渡された繊細な雪白に、なぜ俺にと言いたげな顔をした騎士でしたが。女の子ってのはそのほうが嬉しいんですよとばかりに片目をつむってみせたおかみをしばし見やると、彼は娘さんのほうに向き直りました。

 なんだか決闘でも申し込まれそうな雰囲気に、後ずさりしかけた娘さんに騎士の制止が飛びました。

「そのままでいろ」

 そう告げると、黒髪の騎士は手にしたリボンを娘さんの首にかけ――花か蝶々を思わせるきれいな結び目を作って留めたではありませんか。

「ギルバート」

 ほっそりとした首元を飾るアイルのレースを、ひたすら驚きのまなざしで見つめる娘さんへ、

「しばらく、そうしておけばいいだろう」

 ぶっきらぼうなことばを残し、黒髪の騎士はお代を払うべくおかみへと声をかけたのですが。そんな彼の耳に、ありがとうという娘さんの声が届きました。

「髪が伸びるまで、こうやって飾りますね」

 みずみずしい桃のように頬を染め上げ、緑の瞳を輝かせる娘さんの首元が意外にも優雅であること、淡雪のレースがそれをほどよく引き立てていることに気づいた騎士でしたが、

「戻るぞ」

 そっけなく告げると、黒髪の騎士はお代を払い、娘さんが頼んだ糸束の包みを受け取るなり足早に店先から離れました。

「もう、待ってください」

 いつも先に行っちゃうんですからと、娘さんが慌てて後を追いかけはじめます。にぎやかに店から遠ざかってゆくふたりを、微笑ましそうに見送っていた小間物屋のおかみは、ふと手に触れたものにあらまと目を丸くしました。

「いやねえ、旦那ったら」

 糸束を並べた籠の上に、ぽつんと乗っている小さな包み。つい先ほど、黒髪の騎士がおかみに頼んだばかりの端切れの束でした。どうやら彼はお代だけ払って、肝心の買い物を持ち帰ることをすっかり忘れてしまったようです。

 まあ旦那にゃ端切れよか、リボンのほうが肝心だったんでしょうけどねと心で呟いたおかみに、それならあたしに預けてちょうだいと声を上げたのは果物売りの女房でした。

「うちのひとが、あした砦へ果物を届けに行くのよ。そのときに騎士さまへお渡しすればいいでしょう」

「悪いわねえ、リーズ」

 あたしお店から離れられなくてと、小間物屋のおかみは小さな包みを果物売りの女房へと手渡しました

「いいのよ。あの騎士さまにはうちのひとがお世話になったことだし」

 ありがたいお守りの効果も抜群だわと笑う若い女房の腕では、かわいい靴を履いた小さな男の子が、おーかみ、だんなとおかあさんのことばをまねながら、店先でひらひらと舞う怪しげなお守りを取ろうと手を伸ばしています。

「じゃあ、これはあたしからのお礼」

「いいの、ジャンヌ。端切れにしちゃずいぶん丈があるじゃないの」

「いいのよ。レミ坊にシャツでも作ってあげて」

「そう? じゃあこんど、おいしい桃が入ったら持ってくるわね」

 じつにたわいもない、平和でにぎやかなやりとりを繰り広げる名もなき町の人々の上に。

 砦への帰路を急ぐ騎士にようやく追いつき、その腕にぎゅうとしがみついた娘さんの上に。

 沈みゆく西日は、まばゆい輝きとやがて訪れるやさしい夜の気配を投げかけてゆくのでした。



 ところが、翌朝のこと。

 かわいい女房の頼みを引き受けた果物売りが、奥方さまからの注文の品を届けにやってきたついでに、忘れ物を携えて黒髪の騎士を訪ねてきたのですが。

「聞きましたぜ旦那、嬢ちゃんに贈り物したんですって?」

 開口一番、たいへん率直かつ豪快な問いを放った果物売りを詰所の隅っこへ引きずっていき、他言無用にと釘を刺そうとした騎士の背を、軽やかに叩く者がおりました。

 背筋をひたひたとはい上がる、嫌な予感に振り返った彼の目に映ったのは案の定というべきか。ご婦人がたをとろけさせるような笑みを浮かべた琥珀の騎士と、「尋問用」と縫い取りされた仔羊のぬいぐるみを抱えたのっぽの学僧でした。

「何があったのかな、ギルバート君」

 <災厄>の寵愛深き身ゆえか、慣れないことなぞするからか。

「かの君のはしゃぎぶりをご覧になった奥方さまが、ことの次第にいたく興味を示されまして」

 そんなわけですからどうか一言と、ぬいぐるみを掲げてみせたのっぽの学僧から後ずさった黒髪の騎士へ、果物売りの陽気な声がとどめを刺しました。

「なんだい、嬢ちゃん喜んでくれたならいいじゃありませんか旦那。あとは押して押して押しまくりゃあこっちのもんで」

「……頼むから黙ってくれ親爺」

 端切れの包みを忘れたばかりに、いらぬ災厄を招いた己が迂闊さを、黒髪の騎士が天なる<母>に向けて呪っているのと同じころ。

 明るい日差しが降り注ぐ婦人部屋では、このリボンにはどれが合うかしらと、手持ちの服をうきうきと並べている娘さんの姿が、奥方さまをはじめ皆の微笑みを誘わずにはいられなかったとか。


(Fin)

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