馬とあるじ、ふたたび
高い空の下、さわやかな秋風が吹き抜けるある日のこと。
「どうなさったのです、ダウフト殿」
愛馬バリエカの調子を見ようと、厩舎にやってきた琥珀の騎士。そこで彼は、<やさしき瞳>リーヴスラシルの首筋を撫でている聖女さまに目を丸くしました。
「リシャールさま」
微笑みかける娘さんでしたが、いつもの元気がないことを砦いちの伊達男はすぐに見抜きます。
「やさしき顔を曇らせたままとは、あなたらしくもありませんね」
たとえ魔族が砦を囲もうと、<狼>たちとともに立ち向かおうとする聖女さまです。その彼女に、こんな顔をさせる者が誰であるかはうすうすと分かってはいましたが、よろしければ話してくださいませんかと騎士は笑いかけます。
「あの、そんなに大したことでは」
「笑っていたほうがあなたにはふさわしいと申し上げたはずですよ、ダウフト殿」
おどけた表情をする琥珀の騎士に、リシャールさまったらと笑ってみせると、娘さんはややためらいがちに手にしていたものを差し出してみせました。
「これは?」
娘さんの掌で、くるりと巻かれているのは空色のリボンでした。あしたを呼ぶ白き聖鳥を戴く<髪あかきダウフト>の御旗の色、武骨ないくさ姿の中に覗くほっそりとした首許を飾るスカーフと同じ色です。いまだにご婦人がたの間で絶大な支持を得ている、自分と思い人との名を交互に綴っていくまじないかと思いかけ、琥珀の騎士はふとリボンの表面に気がつきました。
「あなたが?」
優雅と呼ぶには、少々無理がありましたけれども。やわらかな空色に丁寧に施されたタイムの枝葉模様が、娘さんの人となりを表わすかのように伸びやかなさまを見せています。旅やいくさに出る騎士の無事を願い、かの香草を刺繍したスカーフを贈る貴婦人たちのならわしに目を見張る琥珀の騎士に、娘さんはうなずきました。
「今度、ギルバートは騎士団長のお供でモンマスへ出かけるでしょう。最近は街道にも魔物が多くなったといいますから」
モンマス伯の城で行われる、アーケヴじゅうの騎士諸侯を集めた重要な会議。そこへ<狼>たちの長として赴く老騎士の随員として、黒髪の騎士が選ばれたのが七日前のことでした。
実をいえば琥珀の騎士もつい先ほど、自室で旅支度にいそしむ友を労ってきたばかりです。うるわしき姫君がたに鼻の下なぞ伸ばしているんじゃないぞとのたまった彼に、おぬしやサイモンと一緒にするなと少々早い冬の気配を漂わせたいらえが返ってきたのは、まあいつものことでしたけれど。
「わたしも手伝うって言ったんですけれど、従者でもないのに構うなって断わられました」
俺のことより、縫いかけの服でも仕上げたらどうだと部屋をつまみ出されましたと娘さんはふくれます。
「そんなときに、奥方さまやウルリックさまからタイムの刺繍のことを聞いて」
騎士ウルリックが奥方さまの言いつけで、砦に住まう娘さんたちにチェスの妙技や見事な刺繍のわざを伝授していることは皆が知っていました。<熊>の二つ名どおり、いくさ場で数多の敵を震え上がらせる髭面の巨漢がのぞかせる意外な一面に、ひとは見かけによらないと言うけれど本当だなとわがまま侯子ですらうなずいたほどです。娘さんが手にしているリボンも、おそらくは奥方さまや<熊>どのから手ほどきを受けたのでしょう。
「何とか、あやつの出立に間に合うように作られたというわけですね」
どうなったのかとたずねようとした琥珀の騎士でしたが、たちまちしょげ返った娘さんの表情に結果のほどを悟りました。だったら自分のために取っておけと言われて、また部屋からつまみ出されましたと娘さんはリボンを見つめて嘆息します。
「ギルバートがいらないなら、わたしが取っておいてもしかたありませんし」
「それで厩舎に?」
騎士の問いに、娘さんはうなずきました。
「ここで、いちばん最初に会った誰かにあげようと思って」
それが娘さんの愛馬、やさしきリーヴスラシルだったというわけです。女の子だしちょうどいいですよねと笑ったご主人へ、明るい栗毛の牝馬は案ずるように鼻面を寄せました。けれども、たてがみに結んであげると娘さんがリボンを差し出したとたんに、それをつけるのはわたしではありませんと言うかのように囲いから離れてしまいました。
「……リーヴスラシルもいらないそうです」
うなだれる娘さんの姿に、琥珀の騎士は頭を抱えました。
ましろき雪のようなシェバの絹も、はるか東方に産するみごとな錦も見たことがない娘さんです。掌の空色も、アーケヴの村や町でよく見かけられる亜麻で、刺繍に使われている糸も金糸銀糸はおろか、ただの毛糸を細くよりあわせたものでしかありません。それでも、娘さんが差し出したささやかなお守りに、道中の無事を願ういじらしくも素直な気持ちがこめられていたことを、いかな砦いちの堅物男とて察したことでしょうに。
とはいえ、不器用者が決して娘さんを冷たくあしらうつもりはなかったらしいことにも琥珀の騎士は気づきます。
砦でつかの間の休息を取る時以外、ほとんどが武骨ないくさ姿ばかり。ささやかなおしゃれを楽しむこともままならぬ聖女さまを思いやってか、いくぶんの照れも手伝ってか。リボンを差し出してみせた娘さんの、首筋のあたりで切りそろえられた髪を見て幼馴染はそんな言葉を口にしたのでしょう。
けれども彼なりの気遣いも、結果として娘さんをがっかりさせていてはどうにもなりません。あのかぼちゃめ、胸焼けを起こすほどに甘ったるい褐色を堪能しただけではまだ足りんらしいなと琥珀の騎士がぼやいたときでした。
「ブリューナク」
柵から大きな顔を突き出してきた堅物騎士の愛馬に、娘さんが大きく目を見張りました。後ろからはこら待てと、ブラシを手にした馬丁見習いのモリスが懸命に追いかけてきます。くせのある赤髪のところどころに藁がくっついている様子から、どうやら今日もまた好敵手に藁の山へ放り込まれるという仕打ちに遭ったようです。
主人よりも自分に正直と評判の黒鹿毛が、撫でてちょうだいと娘さんに甘えるさまを見ていた琥珀の騎士でしたが、ふいに天啓のごとくひらめいた考えにぽんと手を打ち合わせました。
「いいことを思いつきましたよ、ダウフト殿」
にこにこと手招きする琥珀の騎士に、何のお話ですかと娘さんは歩み寄りました。
「なに、かぼちゃへ少し塩味を利かせてやろうというわけです」
愛らしい耳元へそっと囁かれたたくらみに、まあと驚き呆れる娘さんでしたが――
そうして、次の日のこと。
モンマスへ向けて華々しく出発する騎士団長を歓呼とともに見送っていた砦の者たちは、次いで現れたものに大いにたまげることになりました。
たいそう得意げな面持ちで進んでいく誇り高い黒鹿毛の、立派なたてがみや尻尾のあちこちに飾られた色とりどりのリボン。その背にまたがった黒髪の騎士が、人々の唖然呆然と次いでわき起こった盛大な笑いに見送られていったのです。
おい祭にゃまだ早いぞ、いったいどこへ婿入りする気だと涙を浮かべて笑い転げる<狼>たちをよそに、まっすぐに前を見すえたまま砦の門をくぐっていこうとしていた堅物騎士の黒いまなざしが、人込みの中にたたずんでいた幼馴染をとらえました。
戻ったら覚えていろとばかりに睨みつけてくる黒髪の騎士へとぼけた様子で手を振ってみせると、琥珀の騎士は人垣からやや離れた場所で一行を見送っていた娘さんのもとへ戻ってきました。
「いかがでした、ダウフト殿」
「……ちょっと、かわいそうだったかも」
まさかあそこまですごいなんて思いませんでしたと呟く娘さんに、あまり気になさらずにと琥珀の騎士は笑います。
「これであやつも、少しは懲りたことでしょう」
そう言う琥珀の騎士こそが、なぜか今回のいたずらを一番楽しんでいたような気がするのはなぜでしょうか。まさかリシャールさまに限ってと呟いた娘さんに、
「これでも子供の頃は、ギルバートと一くくりで小猿と言われたものですよ」
面目躍如といった所ですかと笑う琥珀の騎士に、かつて郷里の大人たちを悩ませていたであろういたずら小僧の面影がよぎります。
リボンの仕打ちはリボンで返せ、というわけで。
じつに不本意な出会いゆえ、いつもブリューナクと丁々発止のやり取りばかりを繰り広げているモリスに、仕事を手伝おうかと琥珀の騎士がはなしを持ちかけました。
おぬしは賢くていい子なのに主人があれではなと、騎士が黒鹿毛をやさしくなだめている間にモリスが大きな身体にせっせとブラシをかけました。そこへ婦人部屋から借りてきたたくさんのリボンを手に娘さんが戻って来たところで、琥珀の騎士はちょっとした意趣返しをたくらんだというわけです。
なんだかお祭りみたいだなあと、事情を知らぬモリスまでもが懸命に手伝ってくれたものですから、その出来栄えのみごとなことときたら!
「何でしたら、ギルバートが留守の間にあやつの昔話でもいかかです」
恥ずかしいはなしでしたらよりどりみどりですと言ってのける琥珀の騎士に、どうしようかしらとちょっぴり好奇心がわいた娘さんでしたが、ふとあることに気がつきました。
雷の名を冠する黒鹿毛を彩っていた、色とりどりのリボン。
古いことばで勇気を意味するかの香草を縫い取った、あのやわらかな空色だけがどこにも見あたらなかったような気がしたのですけれど――
さて一方。
「いやはや、災難であったな。エクセター」
旅程の途中で立ち寄った水辺。それぞれが馬に水を飲ませたり、草地に座ってしばしの休息を楽しむ中で、ほどき終わったリボンの小山を傍らに置きやれやれと息をつく黒髪の騎士に騎士団長が笑いかけました。
「おおかたジェフレか、とねりこの小僧の仕業であろうが」
よくぞここまで見事に飾ったものよと色とりどりのリボンを感嘆とともに眺めやる騎士団長でしたが、すぐ側で聞こえたいななきに頭を向けました。見れば木陰の側につながれた一頭の黒鹿毛が、耳を寝かせて前脚で地面をかいているではありませんか。
「はて、ブリューナクはたいそう機嫌が悪いようだが」
不思議そうな顔をする騎士団長に、飾りをすべて取り払ったからでしょうと黒髪の騎士は答えました。
「リボンを外されることが、相当気にくわなかったようです」
「ならばいっそ、あのままモンマスまで行けばよかったのではないか?」
いつぞやの凛々しい武者姿とはまたちがった趣があろうにと笑った騎士団長でしたが、
「うるわしのアンガラドにも飾ってやってはいかがです」
淑女ゆえちょうど良いでしょうと、ひときわ大きな赤いリボンを取りあげた若い騎士に冗談だと慌ててごまかすと、そろそろ出立しようではないかと騎士団長は皆を促すために歩いていきました。しばしその背を見送っていた黒髪の騎士でしたが、ふと自らの左手――武骨な革手袋を少しだけ上にずらしました。
現れたのは、やわらかな空色。伸びやかなタイムの刺繍をあしらったリボンをしばし見ていた騎士は、こちらを見て鼻の穴を膨らませているブリューナクに目をやりました。
「臍を曲げるのも当然か」
何しろ騎士が取り上げたものは、ブリューナク一番のお気に入り。これひとつを外すだけでずいぶんと時間を食ったものです。
出立の直前に、リボンに埋もれた愛馬の姿を見たときには、即座に回れ右をして詰所に帰りたくなりましたが――ふとたてがみを見やったとき、覚えのある空色が飛び込んできたのです。どう考えても、娘さんやわがまま侯子の背丈では少々届きにくい所に飾られていたことから、このいたずらに幼馴染が大いに関わったらしいことにも気づきました。
どうやら、両親や十三人の兄姉たちの頭を抱えさせたジェフレ家の小猿はいまだ健在のようです。砦に戻ったら真っ先にリシャールを締め上げてやろうと心に決めて、黒髪の騎士はふたたび左の手首に結んだリボンを見やりました。
「俺のことなど、構っている場合ではないだろうに」
だったら髪にでも飾っておけばいいものをと呟きかけて、騎士は慌てて口をつぐみました。うっかり誰かに聞かれでもして、また砦であらぬ噂を流されたりしてはたまったものではありません。
鎖かたびらの袖口にやわらかな空色をそっと押し込んで、上から革手袋でしっかりと覆って。これからの道中、ご機嫌ななめの相棒に振り落とされないように気をつけねばと考えながら、黒髪の騎士はリボンの小山を手に歩いてゆくのでした。
それから、三日ばかり後のこと。
人々の盛大な歓迎を受けながらモンマス城の門をくぐった騎士団長が、いとしきアンガラドの尻尾にそれは大きな赤いリボンが飾られていたことに気がついたのは、モンマス伯やご家来衆の出迎えを受けたまさにその時でした。
なかなか風変わりな飾りですなと感心するモンマス伯へ、いやなに我が砦のささやかな流行りものでと応じながら、老騎士がすました顔で控えている若い部下へと目をやり、帰りにはどう仕返しをしてくれようか、このリボンよりもさらに大きなものを取り寄せてやるとあれこれ思いをめぐらせていたことはまた別のはなしです。
(Fin)
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