欠片のカケラ

騎士殿の苦悩


 ざあざあと、容赦なく木々や大地を叩く雨と風。

 慈悲深き<母>の恵みは時として、ひとの子には少しばかり手に負えぬ代物になるようで。


「ほんとうに良かったですね。こんな小屋があったなんて」

 埃くさい木の床に座り込み、古びた壁や梁を見まわして、まるで隠れ家みたいとのんきに笑ったのはダウフトだ。娘からやや離れたところでは、ギルバートが黙々と荷物を広げている。

 出先から砦へ戻る道すがら、娘と騎士が森で出会ったのは雨の女神。

 慌てて駆け出そうとして足を滑らせ、泥水に突っ込みかけたダウフトを寸前で支えた男の目に映ったものは、今は使われていない森番の小屋だった。ひとときの雨露をしのごうと、急ぎ飛び込んだわけなのだが。

「この様子だと、戻るのは明日になりそうですね」

 ぽんと放られた毛布を器用に受け止めると、ダウフトは建てつけの悪い木の扉を叩く風の音と、遠くで轟く雷に耳を傾ける。どうやらひとりぼっちが嫌いな雨の女神は、夕闇とともに雷と風という名の姉妹たちをも引き連れていたらしい。

「砦は大丈夫でしょうか、ギルバート」

 レネは雷が大嫌いなのに、と側仕えの金髪娘を案じるダウフト。ちなみにどこぞの若君が、いま大変淑女らしい悲鳴があがったが誰だなどと口にしたばかりに散々な目に遭わされたことは、砦では恐怖とともに語られている。

「あ、あの。ギルバートは怖いものってないんですか?」

 さっきから押し黙ったまま、一言も喋ろうとしない男にやや不安を覚えてダウフトはたずねる。どこか具合でも悪いのかと続けようとした娘の前に、無言の騎士がどかりと置いたのは。

「ギ、ギルバートっ」

 思わず後ずさりながら、ダウフトは小屋の床に置かれたそれ――鈍く刃を光らせる、抜き身の剣を見やる。いくら自分がうなったところで、両手で持ち上げるのがせいぜいの代物を、騎士は己が手足のように扱ってみせるのだ。

「剣から向こうがおぬし、こちら側が俺だ」

 淡々と告げるギルバートに、危ないでしょうと抗議しかけたダウフトがぽかんとした表情を見せた。

「今晩中には嵐も止むだろう。乾果でもかじったらさっさと休め」

 寝不足で歩けんなどと言ったら承知せんぞ、と言いかけた若い騎士の声がそこで途切れる。


「ギルバート」

 じっと、騎士を見つめてダウフトは問いかける。

「どうして」

 真摯に問うあまりに、気づいていないのか。

 潤んだような森のまなざしは薄明かりにきらめき、問いを投げかけた唇は何かを請うように小さく開かれて。

 聖なる剣をふるうときに見せる横顔と同じ――いやそれ以上の謎を宿したはかなくもたよりなげな顔に、目の錯覚だ、灯の揺らぎのせいだと若い騎士が恐れにも似たおもいを振り払おうとしていることに。

「ダウフト、これは」

 能天気なところだけが取り柄と思っていた村娘が、まさかこんな顔を――胸の奥底を甘く疼かせ、渇きすら覚えさせるような表情を見せるはずもないと思っていただけに尚更だったのかもしれない。戸惑ったように、騎士が乙女を見やったときだ。

「どうしてわかったんですか? わたしがとっても寝相が悪いこと」

 あまりといえばあまりに邪気のないことば。

 しばしの間、呆然と娘を見つめていた騎士のこめかみに、やがて浮かんだのは青筋ひとつ。

「やっぱり噂になっているんですね。このあいだ野営でレオを蹴飛ばしてしまったから」

 翌朝になって、あんまりだとふてくされる少年に平謝りしたことを恥ずかしそうに語るダウフトだったが、

「あの、ギルバート」

 なぜか語れば語るほど、堅物騎士の気圧が徐々に低くなっていくような気がしてならない。

「剣を置かなくてはいけないほどひどいって、レオは言ってました?」

「……ダウフト」

 まだ話そうとする娘をさえぎったのは、重く低い騎士の声。

「何かひとつ、忘れていないか」

 漆黒にとどろく遠雷を宿すギルバートに、ダウフトはきょとんとした顔をする。

「何でしょう、忘れ物をした覚えは」

 あまりにも警戒心というものがない娘の態度に、ついに堪忍袋の緒を切らしたか。

「いいから寝ろっ」

 一気に言い切ると、騎士はダウフトに背を向けて横になり、毛布を頭から被ってしまう。

「ギルバート?」

 首をかしげて、どうして騎士が不機嫌になったのかあれこれと考えていたダウフトだったが。

 ふと辺りを見まわして、小屋の狭さと自分に背を向けているギルバートと、床に置かれた刃の輝きに、ようやくそれらの意味するところを悟った乙女の頬が林檎のように赤く色づく。

 たとえ聖女と呼ばれようとも、ダウフトとて年頃の娘。いまはない故郷の村で、耳年増な仲間たちがおしゃべりの中でそれとなく話題にのぼせていたこと―ひとの子であれ何であれ、<母なる御方>はこの世に男と女という存在を産みたもうたというはなし―を聞いてはいたのだが。

(知ってはいたけれど、でも)

 いつのまにか、共にいることが当たり前のようになっていたものだから。

 エクセターのギルバートとて、若く健康なひとりの男性であることを失念していたことにダウフトは気づく。


 つまり、この剣は境界線。最後の砦。


 そういえば小屋に駆けこんでから、いつも以上に口数が少なかったのも。

 ダウフトに背を向けたとき、黒髪の間からのぞいた耳が心なしか赤かったような気がするのも。

 自分はのんきに笑っていたけれど、気まずい思いを抱いていたのは騎士のほう。

 そう悟った娘の珊瑚の唇がそっとほころぶ。堅物騎士が目の当たりにしていたならば、ざわつく心を抑えるのにさぞや苦労したであろう、馥郁たる花のあでやかさとともに。


「ギルバート」

 毛布を被ったままの男のもとへ近づいて、ダウフトは声をかける。

「そんな格好じゃ、息苦しいですよ」

 指で肩のあたりをつついて見るものの、いいから休めというくぐもった声と、毛布から出た右手が向こうへ行けという仕草しかしなかったものだから。

「わかりました」

 ふくれながら告げると、ダウフトは騎士から離れる。

 切っ先鋭い境界線をおそるおそる越えて、ごそごそと自分の毛布を引っ張ってきて――



                ◆ ◆ ◆



 翌朝。

 野分去りしあとに訪れた、さわやかな青空と太陽の下。

 乙女と騎士の帰りを待ちわびていた砦の者たちは、城門の前でじつに奇妙な光景を目の当たりにすることとなる。

 ただいま戻りましたと晴れやかな笑みで告げる娘と、寝不足と疲労のため憔悴しきった顔で立っている騎士の何とまあ対照的なこと。

 いったい何があったのかと、尽きぬ興味に目を輝かせたリシャールが、頼むから寝かせてくれッとうなりながら詰所に向かおうとする友を無理矢理引き留め、なだめすかして話を聞いてみれば。


 夜半過ぎにふと目覚め、水でも飲もうとギルバートが荷物を置いたほうへと手を伸ばしたところ、何やら固いような柔らかいようなものが触れた。

 それがひとの身体だと気づき、いま自分のほかに小屋にいる者の顔を瞬時に思い浮かべた騎士が、それこそ壁に頭をぶつけんばかりの勢いで後ずさる。


 剣の防衛線などどこへやら、傍らですやすやと安らかな寝息を立てているのはダウフトではないか!


 ばくばくと音を立てている心臓を抑えようと息を整え、生真面目なエクセターの男はダウフトを見やる。

 仮にも騎士ともあろう身で、知らぬとはいえ一時でも乙女の傍らで寝こけていたなどとは!

 いっそ、魔物の襲撃であってくれたほうがまだましというもの。まがりなりにも年若い娘だろうにとか、おぬしには慎みというものがとか、常日頃から自由奔放な聖女に言い聞かせている言葉ばかりがぐるぐると頭を巡る。

 と同時に、胸の奥底を疼かせるような表情を見せておきながら、今は何とも気楽な寝顔を見せている娘にわずかでも心揺らぎかけた自分は何なのかと、悲哀めいた感情すらわき起こってきたのだが。

 とにかく、まずは離れようと即決して身を動かしかけたギルバートを遮ったのは小さな抵抗だった。

 嫌な予感とともに振り返り、己の服の裾をしっかと握って離さぬのが傍らの眠り姫であることに気づき、若き騎士は頭をかきむしりたいほどの思いに駆られる。

 天にまします<母>に捧げる聖句を口にして、頼むから目を覚ましてくれるなとダウフトの手を離そうと細い手首をそっと取ったときだ。


「ギルバート」

 まどろみに身をゆだねながら、くすりと笑ったダウフトの呟きに手が止まる。うつし世では叶わぬ楽しい夢に遊んでいるのか、あまりにも無防備としか言いようのない娘の表情に、何とも面はゆい気持ちが騎士を満たす。

 どうやら夢には自分も出ているらしいが、いつもの如く「やかまし屋のギルバート」としてなのか、はたまた違う存在としてなのか。

「<夢知るもの>なら、それもかなうのだろうな」

 東の果てに棲むといわれる、あらゆるものの夢を司る聖獣の名を口にして。溜息とともに騎士は木の壁に背をもたせかけた。

 ダウフトの手はそのままにしておくことにした。いずれ寝返りでも打ったときに自然と離れるであろうし、無理に引き離して乙女の眠りを妨げるのは、どうにも無粋なことのように思われたから。

 とはいえ。

 朝になって、目を覚ました娘がどうしてギルバートが側にいるんですかなどと騒いだら、何と答えたものやらと思い悩んでいるうちに夜が白み、暁の光が射し込み――


「というわけだ」

 分かったらどいてくれ、とすわった眼で訴えるギルバートの肩に、琥珀の騎士はそっと手を置いた。

「……俺は今、心底おぬしに同情しているぞ」

 哀れみのまなざしを向ける友に、それ以上言ってくれるなとうなると、ギルバートは詰所の扉を開けてその向こうに消えていった。しばらくすると、奥で何か重たいものがどさりと倒れ込む音がして、次いで規則正しい寝息が聞こえ始める。

 そのさまを呆れた表情で見送って、リシャールはやれやれと首を横に振る。

「我が友の心根や、巌か鋼の如きものか――春呼ぶ小鳥に焦がれし冬の騎士か」

 いかに雪と氷に身をよろおうと、空虚な心を凍えさせようと。生命の歓びに満ちあふれた小鳥のさえずりに流した涙のぬくみを覚えたとき、淡雪のように消え去ってしまうがかの者のさだめ。

 ただ違うのは、友も乙女も血肉の通ったひとの子であるということ。互いのぬくみを分け合い、ともに並び立ち歩いていくことを<母なるもの>によって定められた大地の子だというのに。

 ひたむきな<おもい>に戸惑うばかり、どう応えていいのやら分からぬ不器用な男。

 いっそのこと無理やりその腕に乙女を委ねぬ限り、いつまでも進展など望めはしまいというもどかしい事実だけはよく伝わってきたから。

「まあ、何というかだ」

 我が身のことでもあるまいに、なぜかのしかかるような疲れを覚えた琥珀の騎士の側を、昨晩の名残をとどめた風が吹き抜けていった。


 じつに世話の焼けることこの上ない、そんな乙女と騎士のとある一日。


(Fin)

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