少年は残酷な弓を射る その3

 "アザラシ公園"は川島家から徒歩五分の距離にあった。

 確かに、川島里奈の言う通り、だだっ広い土地があるだけの場所だ。昔と何も変わらない土地だ。感傷に浸っているわけではない。事実として、あの頃のまま残っている風景があるというだけだ。ただの土地に感情はない。

 アザラシのオブジェから木々の間を十分ばかり歩くと、不法投棄された粗大ゴミの広場に着いた。ここはいつからあるのだろうか。少なくとも私は知らない場所だった。記憶していなかっただけなのかもしれないが。

 そこまでの道中、私と川島羅夢に会話はなかったが、互いに互いを品定めするような無言のやりとりがあった。

 「くろすけ!」ラム少年は横倒しになった冷蔵庫に登り、犬のものと思われる名前を呼んだ。「くろすけ! 出ておいで!」

 気配がした。

 引き裂かれたソファーの下から黒い犬が現れ、ラム少年に駆け寄った。

 「芝犬の雑種か?」私は少年のそばにしゃがみ、黒い犬を撫でた。

 犬は私の匂いを嗅いで、興味を示したようだったが、噛んだり吠えたりすることはなかった。

 「君のお母さんはこの捨て犬と君が仲良くするのをよく思っていないみたいだが」

 「うん」

 「君はどうしたい? 飼い主のいない犬は一般的には保健所と呼ばれる保護施設に送られる。何を持って"保護"と呼ぶのか。その議論はいまはやめておこう。とにかく、新しい飼い主が見つかるまで、犬は保健所にいることになる。それで構わないかい?」

 ラム少年は黙って犬を撫で続けた。

 私はしばらくそれを眺めていた。

 「くろすけはね、虐待されているんだ」

 「虐待?」

 「うん。この辺によく現れるおじさんがいてね。汚くて臭いにおいがする。ホームレスじゃなくて、ただの無職だと思う。煙草を吸いながら、くろすけを蹴るんだ。くろすけだけじゃない。猫や鳥も、見つければ虐めてる。くろすけは保健所ってところにいけば、今よりは安全なんでしょう? でも、ここにいる他の動物は? 誰が守ってくれるの? あのおじさんに虐められ続けるのは我慢ならないよ。だから、あのおじさんをやっつけてほしい」

 ラムの声の調子はさっきまでとは変わっていた。声だけではない。顔つきや所作も違っている。まるで急に歳をとったかのようで、精悍な若者のように見えた。母親のいないところで、こうしてみせているいるのが、この少年の素なのだ。無邪気で無垢。混じり気のない色をしている。真っ白でありながら、真っ黒にもなる。どことなく、大いなる可能性を感じる。底の見えない子供は初めてだ。

 「虐待男をやっつける。それが君の望みか。では、どうやってやっつければいいんだろう」私は言った。

 「それは桃山先生に任せるよ」

 「どうして私に頼むんだい? 友達と協力してもいいはずだ。君たちの年頃はそういうのが好きだろう? あるいは、学校の先生に相談する。君の周りには大勢の人間がいるだろう」

 「僕がやったら、殺しちゃうかもしれないから」

 「ほう?」

 「桃山先生は僕の学校の先生とは違う。まだ会ってから少ししか経っていないけど、僕にはわかる。一目見たときからわかったんだ。桃山先生ならなんとかしてくれる。そして、これから見ることを誰にも喋らない」ラムはそう言うと、ガラクタの上に積み上げられた電子レンジを指差した。「あれ。見てて」

 まさか! この少年も感染者なのか? 

 私の予想に反して、膨張は起こらなかった。その代わり、電子レンジは宙に浮いた。ほんの少しだけだが、確実に浮いていた。

 ラムは手を前に出し、電子レンジに向けた。手首をスナップすると、それに呼応するように電子レンジはガラクタの上に落ち、上部が凹んだ。上から重い鉄球を落とされたように。

 浮遊と、見えない鉄球? ディープファイブなのか? ディープファイブの別種か? それとも"ギフト"はひとつではないのか? どこで感染した? 

 「まだだよ」

 思考が追いつかず呆気にとられる私をよそに、ラムは電子レンジに人差し指を向けた。

 来る! 

 電子レンジの扉が吹き飛んだ。

 確定だ。この少年、川島羅夢は感染者だ。しかし、私のディープファイブとは違う。別な"ギフト"。あるいは変異したものなのか? 

 「驚いた?」ラムは無邪気に笑った。鼻血は出ていなかった。

 「驚いて言葉もでないよ」

 「本当かなあ」少年は子供のように笑っている。

 「君がやったのか?」

 「僕がやったと信じてくれる?」

 「トリックやマジックと言うのだろうな、普通なら。これを誰かに見せたことは?」

 「ないよ。桃山先生が初めてだよ。超能力は見せびらかすもんじゃないからね」

 「それは光栄だね。でも、どうして私に見せたんだい?」

 「うーん。どうしてかな。なんとなく。僕もはっきりとはわからないんだ。なんとなく、先生なら理解してくれるかなあって。桃山先生は頭が良さそうだし。あ、頭が良いっていうのはね、勉強ができるって意味じゃなくて、なんかこうね、ほら、こう、本当の部分で頭を使える人だと思うんだ。桃山先生はそういう人だ」

 「君も十分頭が良い。私よりもずっと頭の良い大人になるだろう」

 そうだ。ラム少年の潜在能力は計り知れないものがある。ディープファイブ亜種の感染者で、私より遥かに強力な"ギフト"を持っている。その上、子供ながら自分の特異な能力を隠していた方がいいということも理解している。大いなる可能性がある。

 危険だ。近い将来、確実に、川島羅夢は私の上位互換となる。

 いまここで、殺しておくべきか? 芽は伸びる前に刈っておいた方がいい。

 ラムは犬を抱きあげた。

 「桃山先生。この子をよろしくお願いします。できれば、保健所じゃなくて先生と一緒に暮らしてほしい。僕はそう願うよ」

 私は黙りこくって立っていた。

 犬を抱く少年は犬と同じ瞳で、少年に抱かれた犬は少年と同じ瞳で、私を見ていた。

 「わかった」私は犬を抱いた。

 黒い犬は私の腕の中で尻尾を振り、顔を舐めてきた。

 川島羅夢は殺すべきではない。

 少年の保有するディープファイブ亜種を、ここで捨ててしまうのは惜しい。感染源を特定することで私の"ギフト"も次のステージへ上がることができるのかもしれない。私にも可能性は残っている。

 いまのところ、川島羅夢から敵意は感じられない。偽ること、本心を隠すことに慣れているようだが、それに関しては年季が違う。私と同類であるような一面もあるが、純粋な子供の心も持っている。無邪気さは、善と悪両方に起こり得るのだ。

 少年は発展途上だ。境界線は、まだない。白か黒か、どちらに転ぶかはこれから先のことだ。いまはまだ、私の敵ではない。

 「ひとつだけ、確認しておきたい」

 「何?」

 「犬の名前は私が付けても構わないか?」

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