七年の不運

 この間はツイていた。その前はツイていなかった。人間は「運」に頼って生きている。一説によると、幸運のあとには不運があり、その先には幸運がある。人生はそれの繰り返しだという。欲深い人間の考えそうなことだ。

 私の人生はそれほど「運」に影響されていない。結果は行動によって導かれると信じているからだ。正しい"精神の宮殿"を持っていれば不確かな運に惑わされることはないのだ。

 だが、「運」という見えない事象があることは事実だ。莫大な金銭を一枚の紙切れで手に入れる者がいれば、何百年に一度という割合の事故に巻き込まれる者もいる。本人の意思や行動とは関係なく、避けられない運というものがあるのだ。

 「運」は大きいものだけでなく、小さなものもある。旅先では必ず小銭を拾ったり、チケットを買えば料金以上の良い席が割り当てられる。小さいが確実な幸運で、満ち足りた毎日を送る者がいる。一方で、珍しく早起きをすれば電車が遅延し結局は遅刻することになったり、信号に当たればいつも赤で止められたり、小さな不運を積み重ねてしまう者もいるのだ。

 飯塚千夏は「不運」に取り憑かれた少女だった。

 星城高校二年C組、出席番号2番。身長155センチ、水泳部所属。成績、運動神経ともに平均。化粧っ気がなく地味な印象を与えるが、容姿は整っている。大和撫子とも受け取れるような奥ゆかしい彼女に、熱をあげる男子生徒も少なくないはずだ。

 私が彼女を初めて見たときに抱いた感情は、幸が薄い顔だということだった。私はそれほど彼女を深く知っているわけではないので、真実なのかはわからない。ただの印象として、彼女は幸が薄い顔をしている、ということだ。幸運に見放された顔だと、私には感じられたのだ。

 どれだけ幸運に恵まれなかろうが、私には関係のないことだった。関わりを持つつもりもなかった。しかし、学校という狭い世界の中では、望まない出会いさえ否応無しにやってくるのだ。人間の世界は恐ろしく狭い。

 それは夏休み直前の期末考査三日目のことだった。

 期末考査はすべての学年で一斉に行われるため、教員は学年問わず様々な教室に二人ずつ配置される仕組みになっていた。

 その日、私は一年D組、二年C組、三年F組を担当した。試験科目は数学、漢文、世界史だった。専門である国語以外の教科を生徒たちがどの程度理解しているのかを見られるのは、中間・期末試験のときだけだ。生徒の学力をみる上で、試験監督というのはそれなりに興味深い役割だと、私は思っていた。

 四限目は担当する試験がなく、中間考査以来に学食でカツカレーを食した。客観的に味の審査をするのであれば、高得点は望めないだろう。しかし、学食でしか出せない味があることも事実だ。美味い不味いを通り越した、心を刺激する味だ。学食という空間と安価な食事が織りなす雰囲気が、食事の楽しみを見出してくれるのだ。この味は、現役の学生たちよりも、かつて学生だった者の方が好む味なのかもしれない。

 そんなふうに昼食を楽しんでいるとき、山本千恵子が私の正面に座った。彼女は高校二年の英語担当教師であり、水泳部の顧問でもあった。

 「お疲れさまです」山本千恵子は唇だけで笑みを浮かべた。彼女はいつも感情の読みにくい顔をしている。

 「お疲れさまです」

 「期末考査は授業がなくて楽だけど、採点が大変ですよね」

 「そうですね」

 天ぷら蕎麦を食べていた山本千恵子は、眼鏡を湯気で曇らせていた。

 「桃山先生、夏休みはどうされるんですか?」山本千恵子の声はウグイスのようによく通り聞き心地がいい。

 「予備校で小論文をみていましてね。夏期講習があります」

 「夏期講習って毎日ってわけではないんでしょう? 何日か空いている日はありますか?」

 私は山本千恵子を凝視した。三十二歳にしては肌艶がよく多忙な教職員とは思えないほど手入れをよくしている。黒いショートヘアーと水色の縁の眼鏡がよく似合っている。カジュアルスーツの上に羽織った白衣からは医者のような知的な印象を受ける。切れ長の目は大きく、冷たさとも感じるような目つきだ。万人が思う美人とは言えないかもしれないが、感情の起伏を感じさせないところに、私は好感を持っていた。

 「それは、デートのお誘いですか?」

 「違います」山本千恵子は表情を変えずに言い放った。やはり、照れや怒りを見せない。「実は、八月に水泳部の合宿がありまして、私も顧問として参加するのですが、男子水泳部の今西先生が欠席になってしまいまして、桃山先生に代わりをお願いできないかと」

 「私が?」

 「ええ。桃山先生は水泳が得意と聞きましたので」

 「水泳が得意、と言った覚えはありません。それは、週末に泳ぐこともあるという程度の趣味の範囲です。スキューバを趣味にしていましてね、そのために泳ぐことを忘れないように心がけているだけですよ。生徒にあれこれ指導するなど、とんでもない」

 「それに関してはご心配いりません。指導はコーチが行います。私たちは、生徒の安全のために同行するんです。合宿は男女合同ですので、男性教師の人手が減ると困るんですよ」

 「それでしたら、体育の橋本先生はどうです? 私よりも頼りになると思いますよ」

 「橋本先生は陸上部の合宿で来られないんですよ。どうしても、お願いできませんか?」

 「実は新しい家族ができまして」

 「え? 結婚されたんですか?」

 「いえ。犬です。少々複雑な過去があるので、一人きりにさせることも、ペットホテルに預けることもしたくないのです」

 「ああ、良かった」山本千恵子は意味ありげに微笑した。「それなら大丈夫ですよ。山中湖の合宿所はペット可ですから。一緒に連れてきて構いません」

 まさか。そんな施設が存在するとは。断るのにちょうどいい理由だと思ったのに。

 「もう一度聞きますが、本当に私でいいのですか? 私は非常勤です。授業以外のイベントの経験はほとんどありません。本学には他にも優秀な先生がいらっしゃるでしょう?」

 「実は」山本千恵子は食事を飲み込んだ。彼女は天ぷらのエビを尻尾まで食べるタイプのようだ。「女子部員や保護者にアンケートをとったところ、桃山先生が一番信頼できるという結果になりまして。ほら、なんというか、近頃は教職員の不祥事も増えてきているでしょう? 特に、うちは水泳部ですからね。あれなんです。学業指導面において優秀であっても、人間として信頼できることとは別問題でして。生徒たちにとっては、非常勤だとかどうかも関係なくて、なんというか、その……」

 「なるほど」私は理解した。「オブラートを剥がして言えば、教師によるわいせつ、それを気にされているのですね? 私ならその心配はない、と」

 「ええ、まあ、そういうことです」

 「あまり深く問わない方が良さそうですね。そういうことなら、仕方ありませんね。いいでしょう。引き受けます」

 「ありがとうございます」山本千恵子は表情を崩した。愛嬌のある笑顔だった。私は彼女のこんな顔を見たのは初めてだった。「教頭先生にはすでに話してあります。詳しくは、改めて資料をお渡しします。何かわからないことがあれば、なんでも聞いてください」

 「わかりました」

 「気楽に、一緒に楽しみましょうね」

 「ええ。夏休みの旅行だと思えてきましたよ」私は紙ナプキンで口元を拭った。「ごちそうさまでした。それでは、午後もよろしくお願いします。お先に」


 やれやれといった状況だ。面倒なことに巻き込まれてしまった。しかし、こうなってしまっては仕方がない。リトル・ブラッキーを旅行に連れて行くいい機会だと思うことにしよう。

 それにしても、どうして私に白羽の矢が立ったのか。信頼できる教師は他にもいるだろうに。近頃、教頭からか過剰な期待を寄せられているのが原因なのかもしれない。どういうわけか、教頭は私のことを気に入っているようで、度々、非常勤ではなく正式に星城高校の教師にならないかと話を持ちかけてきていた。私は概ねいまの生活で十分なので、小論文の予備校講師の区切りがついたらとお茶を濁していた。この人間社会での出世など、私にとってはどうでもいいのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る