暗殺の森

 八月十二日月曜日。夏の雲が山々の上に広がり、青空と自然の緑とのコントラストが非常に美しい。ジメジメとした都会とは違い、澄んだ空気と穏やかな風でカラッと晴れた気持ちの良い気候だ。

 私は屋外プールで泳ぐ男子部員たちよりも、情緒あふれる夏の風景に見入っていた。本当なら、読書をしていたいところだ。キンキンに冷えたビールがあればなお良い。足元で寝そべるリトル・ブラッキーもハアハアと舌を出し、私に賛同しているようだ。

 穏やかな午後。私の愛する時間だ。この"聖域"に未熟な学生どもが入り込んでいることだけが嘆かわしい。

 泳ぐたびに飛沫をあげ、水面に現れる無数の泡を眺めていると意味もなく"膨張"させたい気持ちになる。私の"精神の宮殿"に入り込もうとする人間を無条件に"膨張"させることができたなら、なんと気持ちの良いことだろう。私の世界に人間は不要だ。"精神の宮殿"はいつだって穏やかでなければならない。

 私は"膨張"の欲求を抑えるためにプールサイドを歩いた。見回りをしているふうを装う、日光の下での短い散歩だ。リトル・ブラッキーは首にリードがなくとも、私の後を行儀よくついてくる。利口な犬だ。

 ここの屋外プールは二面になっており、東側が男子、西側が女子と分かれての練習が行われていた。私はプールを二つに分ける真ん中のプールサイドを歩いていた。

 不意にリトル・ブラッキーが吠えた。彼が吠えるのは珍しい。

 足を止め、彼を見た。吠える先は女子プールだった。二年生が泳ぐ列の最後尾で、異常な泡があがっている。ちょうど、プールの真ん中で一番深い場所だった。

 私は瞬時に理解した。

 シャツを脱ぐ間もなく泡の中へ飛び込んだ。予想通り、水中に飲み込まれている生徒がいた。私は彼女を抱え、プールサイドに引き上げた。部員たちは泳ぐのをやめ、教員たちは駆け寄ってくる。

 「足を吊ったようだ」私は言った。「しばらく休んだ方がいい」

 足を吊ったその女子部員は咳き込みながら何か言った。どうやら礼を言っているようだ。そこで彼女の顔をやっと認識した。飯塚千夏。これが不運でなければなんだというのだ? 

 「よく気づきましたね、桃山先生。本当にありがとうございます」飯塚千夏の背をさすりながら、山本千恵子が言った。

 「気付いたのは私ではない。ブラッキーだ。礼なら彼に」私はシャツを脱ぎ、水分を絞った。「シャツを着替えてきます」

 更衣室へ向かう私のうしろをリトル・ブラッキーがついてきた。

 生徒たちの視線がリトル・ブラッキーから私へと移るのを感じた。背中を虫が這っているかのようにもぞがゆい、居心地の悪い視線だ。英雄を崇めるが如く畏敬の念が降り注ぐ。

 困ったものだ。どうして人間は英雄を求める? 英雄に憧れを抱く? どうして英雄が必要なのだ? 私にはいらぬものだ。他人から憧れの的となるような英雄などにはなりたいはずがない。私が求めるのは、崇高な"精神の宮殿"であり、私とリトル・ブラッキーだけが存在すればいい世界だ。他人の精神など必要ない。他人と関わりたくないのだ。憧れの対極にいるはずなのだ。それなのに。どうしてまとわりついてくるのだろう? 

 私は憂鬱な気分で新しいシャツに袖を通した。嗅ぎ慣れた洗剤と柔軟剤の香りも、きょうだけは私の精神を少しも穏やかにさせてはくれなかった。

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