探偵物語 その2

 公益財団法人"エルマーのクラブ"は稲毛第四小学校や千葉市にある他の小学校と提携していた。任意の参加によるサマーキャンプやウインタースポーツ等で児童たちの心と体を育むことを目的とした団体だ。

 キャンプ場は二箇所所有しており、ひとつは館山の〈エルマーの牧場〉でもうひとつは市原市中高根にある〈エルマーのゲレンデ〉だ。前者は夏、後者は冬に利用される。児童文学『エルマーのぼうけん』に因んだ名前なのだろう。眞田竜は物心ついた頃、最初に手にしたのがその本だった。

 八月十三日から十七日に〈エルマーの牧場〉でキャンプをしていたのは、稲毛第四小学校と真砂第四小学校の児童125人。内訳は、稲毛四小から計63人。うち、六年生10人、五年生18人、四年生14人、三年生15人、二年生6人。真砂四小からは62人で、六年生10人、五年生20人、四年生14人、三年生14人、二年生4人。

 キャンプ中の活動や食事などは五人の班に分かれ、就寝のテント(雨天時は宿泊施設)は学年ごとに分かれる。五人組の班は全部で九つ。三、四班に引率の大人が一人つく。小学校教諭は参加しておらず、大人はクラブの従業員15人。班を引率する9人と、食事や施設管理の者が6人。

 140人。それがキャンプ場にいた人間の数だ。

 川島羅夢の失踪は、不慮の事故によるものなのか。それとも運営側の管理責任に問題があったのか。文字情報だけでは判断しかねた。参加者に地道な聞き込みをしていくしかない。

 「あれ? 誰か来てたんですか?」渡辺慎の寝ぼけたような声がした。徹夜明けのときの喋り方だった。

 眞田はデスクの資料を見たまま答えた。「子供の失踪事件だ。どうして依頼人が来たとわかったんだ?」

 「残り香。女の人でしょ? 香水のにおいがする。あと煙草も。これはピアニッシモですね。女の人がよく吸うやつ」

 「特に水商売関係がね」相変わらずよく効く鼻だな、と眞田は感心した。

 渡辺慎は千葉県の国公立大学の大学院生だ。大学一年の頃に学生寮が火事になり、退去を余儀なくされた。金銭的に貧しく、インターネットカフェで毎日を凌いでいた。そんなとき、眞田竜と出会った。

 眞田も金銭的には余裕がなく、探偵事務所を自宅としても使用していた。自宅は事務所と扉ひとつで繋がっており、広さは四畳半ほど。小さな別室がひとつ残っていて、物置にしていた。その物置を住居として貸す代わりに、渡辺慎は探偵助手になったのだった。

 渡辺慎は身長165センチと平均よりやや低め。乱視が酷くなりはじめ、長年使用している黒縁メガネは度があわなくなってきていた。好きな映画監督はアルフレッド・ヒッチコック、音楽はボブ・ディラン。洋服はギャップかユニクロがほとんどで、スニーカーは履き潰したリーボック。学業にも探偵業にも真面目な好青年、というのが眞田の印象だ。

 眞田竜が渡辺慎を助手にしようと思い立ったのは、彼の優れた嗅覚を知ったからだった。

 二人の出会った日、津田沼駅の立ち飲み居酒屋で渡辺は吐瀉物の臭いを嗅いだ。その飲み屋には吐瀉物も嘔吐する人間もいなかった。しかし、帰り道の路上に吐いたばかりのそれはあった。飲み屋からは三百メートルは離れていたし、路上には他のあらゆるにおいで溢れていた。声を吞む眞田をよそに、渡辺は自慢するとでもなく言った。パクチーが嫌いなんだ、と。実際、その吐瀉物の中にはパクチーが含まれていた。

 渡辺の嗅覚はそれだけにとどまらなかった。吐いた男までも突き止めたのだ。吐瀉物からパクチーを嗅ぎ分け、ゲロとパクチーの口臭を放つ男を数メートル先で見つけたのだ。

 彼は天から嗅覚という"ギフト"を授かった。眞田はそう感じた。

 「浮気調査以外の依頼は久しぶりですね」渡辺慎はあくびをしながらコーヒーを注いだ。角砂糖ひとつとミルクフレッシュひとつ、それが渡辺の好みの飲み方だ。

 「ああ。七歳の小学二年生失踪事件。待ちに待った難事件がきたのかもしれない」

 「待ちに待ったって。不謹慎だから外では言わない方がいいですよ」渡辺はコーヒーを飲みながら川島羅夢の資料を覗き込んだ。「へえ。サマーキャンプでいなくなったんだ。行き先も告げず、目撃者もなしの不可解な失踪。いじめですかね」

 「どうだろうな。参加者に話を聞いてみないと始まらない。それより……」

 「それより? なんです?」

 「母親が気になる。子供が失踪した割に、随分と落ち着き払っていた気がするんだ。ネグレクトが原因の可能性も捨てきれない。ま、ただの勘だがな」

 「探偵の勘は馬鹿にできませんからね。それ、僕も行ってもいいですか?」

 「ああ、そうしてほしい」渡辺が自らついてきたいと言うのは珍しいな、と眞田は思った。

 「実験もひと段落ついたので、ちょうどよかったです。それに、試したいこともあるので」

 「試す?」

 「嗅覚です。僕、また鼻が良くなったような気がして。もしそうなら、結構使える能力だと思いますよ」

 「今でも十分優れた鼻だがな」眞田は少し羨ましくも思っていた。「今からいけるか?」

 「徹夜明けなので車の中で寝てていいなら。あ、飯田さんちの浮気調査はどうします?」

 「放っておけばいいさ」

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