太陽を盗んだ男
二〇一三年五月十九日土曜日。強い雨と霧に覆われた夕暮れ時。私の"聖域"に一人の女性が迷い込んで来た。彼女の名前は中山
きっかけは山芋だった。私は長く通い詰めたおかげで、〈オールウェイズ〉のスタッフから認識されていて、入店すれば必ず一品のつまみをサービスしてくれていた。それはミックスナッツのときもあれば、メニューにはない凝った料理のときもあった。何れにしても美味いものしか出てこない。
この日は山芋のフリットだった。それが、中山千里が会話をはじめるきっかけになった。
「何を食べているんですか?」中山千里は長い髪をかきあげ、遠慮がちに声をかけて来た。
「山芋です」私は文庫本から目を離さずに言った。この日読んでいたのはコーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』だった。
「美味しそうですね。私も頼んでみようかな」
「無理だと思いますよ。これはこの店の善意。メニューにはないもので、私のような常連客へのサービスですから」
「そうですか……」中山千里は言葉の最後をビールで流し込んだ。
彼女が飲んでいるのはキルケニー。千葉市ではこの店でしか飲むことのできないアイルランドビールだ。
私は文庫本に栞を挟み、テーブルに置いた。「私に用件があるようですね。それとも、以前にどこかでお会いしたことが?」
中山千里は大きな目をさらに大きくした。
「見ての通り、私は一人読書をしながら少しの食事とビールを嗜む変人です。いえ、お気遣いなく。生徒からも変人という陰口を叩かれています。私は女性と縁のない生き物だとも。近寄り難い雰囲気があるそうです。そういう空気を出しているつもりはありませんが、否定はしません」
「先生、なんですか?」中山千里はためらいがちに言った。
「ええ。私立高校で現代文を教えています。非常勤講師ですので、まあ、趣味の範囲なのかもしれません」
「はあ」
「私に話しかけるように仕向けたのは、太田さんですか?」
太田はオジー・オズボーンのような長髪の巻き毛をした〈オールウェイズ〉の男性店員だ。身長はおそらく165センチ。私より10センチばかり低い小柄の気の良い男性だ。
「ど、どうしてわかったんですか?」中山千里は私の方に身を乗り出した。髪の間から甘美な匂いが流れてくる。ロクシタンのシャンプーを使っているようだ。
「私のことを紹介する人が存在するとしたら、太田さん以外にはいません」それに彼女と太田が親しげに話をしているところを目撃していた。
「探偵みたいですね」
「探偵小説は好きです。文学の話をしましょうか?」
「いえ」答えた後で、中山千里は申し訳なさそうな表情をみせ、咳払いした。「実は聞いてほしいことがありまして。三日前、佐倉で見つかった焼死体のことはご存知ですか?」
私は記憶の中の新聞をめくった。三日前、十六日水曜日、佐倉市、焼死体。だが、思い当たることはなかった。新聞は毎日読んでいるのだが。
「焼死体、という文字を見た記憶はありませんね。……もしかして、印旛沼付近で発見された車のことでしょうか? 丸焦げになった車から身元不明の遺体が発見された。警察は事件、事故、両方の線で捜査を進めている、という記事なら新聞で読みました」
「あ、それです!」
「焼けたのは遺体ではなくて、車の方でしたね」
私は微笑んだが、中山千里は笑うタイミングを逃したように、頬を引きつらせていた。
「犯人を捜してほしい。あるいは、遺体の身元を特定してほしい。というお話でしたら、お断りします。私は警察でも探偵でもありませんからね」
「おかしいんです」中山千里は言った。それは私の性格に対しての言葉ではないようだ。「丸焦げの車が見つかったのは、土砂崩れが原因だったそうです。でも、印旛沼周辺の、あの辺りじゃ土砂崩れなんて起きないんです。そういう斜面がないから」
「ええ、それなら民放の夕方の報道で拝見しました。十五日から降り続いた大雨で河川が氾濫。それに加え、十六日未明千葉北東部が震源の地震により、地盤沈下が起きた。小さな斜面、小さな崖ができてしまったようです。それが流されるように土砂崩れが起こってしまった。物知り顔の専門家はそう解説していましたよ。氾濫も地震も土砂も小規模なもので、さほど心配はいらないそうです。小規模、とは体験していないからこそ言える他人の傲慢な独り言のようですね。
そういうわけで、土砂崩れが起き、それによって車が掘り起こされたのは事実です。土砂崩れ、という表現が正しいのかどうかはわかりません。本当は、もっと適切な単語があるのかもしれませんが。最初に土砂崩れという発言をしたのは、第一発見者だったと思います」
「大雨と地震で斜面ができて溜まった土砂が流れた。そういうことですよね? それじゃあ車は? 車は崩れたところから出てきた? それまで埋まっていたということですか?」
「ほう」
「それだけじゃないんです。見つかった車はトランクがなかった。土砂崩れで壊れてしまったとかじゃない。ねじ切られたような壊れ方だったんです」
「ねじ切られた? 誰かが車のトランクをねじ切った、と考えているのですか?」
「子供の頃、おもちゃの車のトランクをねじ切ったことがあります。あの丸焦げの車も、人の手でちぎったような跡がありました」
「なるほど。そう言われると奇妙ですね」
「テレビのニュースを見ても、なぜ? という疑問は投げかけているものの、何も語られてはいないんです。変だと思いませんか?」
「まあ、確かに。それで?」
「それで?」
「どうして私にこの話を?」
「桃山先生は怪奇現象の類に精通していると聞きまして……もしかしたら、この謎を解明してくれるのではないかと」
私はギネスビールを飲んだ。〈オールウェイズ〉の注ぎ方のバランスは完璧だ。どこの店で飲むよりも、味わい深い。
「先ほども言いましたが、私は現代文の非常勤講師です。謎の解明などは専門ではありません。ましてや、怪奇現象など。精通している、というのはあくまでも趣味の範囲です。人に依頼されて動くようなことはしません」
「でも……」中山千里は寂しがり屋のうさぎのような目をしていた。
「気になる人物がいるのですね?」
中山千里は私を見て俯いた。年齢は二十七歳くらいだろうか。私は彼女の顔を観察した。
「元カレなんです」中山千里はキルケニー のパイントグラスを掌で弄びながら語りはじめた。「あの車は大学生の時に付き合っていた
つまり、中山千里は二十七歳。私の予想は当たっていたようだ。「車の中の身元不明遺体は、その葛和彦、だと思うのですね? 警察にそのことは?」
「いえ、何も。付き合っていたのは五年も前のことですから。でも、あの車には見覚えがありまして。黒焦げになっていても、私にはわかります。それに……」中山千里は喉を鳴らしてビールを飲んだ。手の甲で口元を拭う仕草は色っぽかった。爪は綺麗に磨かれている。
私は黙って彼女の言葉を待った。
「車の遺体は死後数週間は経っていたと聞きました。でも、おかしいんです」
学校で講義を行っているような気分になってきた。いや、私の教える学生よりも彼女の方がよっぽど疑問を投げかけてくる。
「三日前、電話がかかってきたんです。別れたときにアドレスは消していたから、誰からかかってきたのかはわかりませんでした。電話にでると、葛和彦でした。あれは和彦の声でした。間違いありません」
「実際に葛和彦の声を聞いたのですね?」
中山千里は無言で力強く首を縦に振った。
「三日前、というと遺体の見つかった日ですね。その日、死者から電話がかかってきた」
私は"精神の宮殿"に入り、情報を整理した。新聞、テレビで報道されていた情報と中山千里の証言を照らし合わせた。
「ミステリとしてはなかなか面白いかもしれません。特に、死者からの電話というところが」私はギネスを飲み干した。「やはり、私にできることは何もないというのが結論です」
「そんな!」
「中山さん。仮に、私が電話の正体、遺体の身元などを解き明かしたとしましょう。それで、あなたはどうするのですか?」
中山千里は言葉に詰まった。何か言いにくいことでもあるのだろう。
「申し訳ありませんが、これ以上深入りするつもりはありません」私は文庫本を鞄にしまった。「そうだ。最後にひとつだけ。葛和彦さんは山が好きではありませんでしたか?」
「山?」中山千里は眉をひそめた。「山登りが趣味でしたけれど……」
私はレインコートを羽織った。「きっと彼は二〇〇五年、あなたと出会う前かもしれませんね、二〇〇五年十二月も山登りをしていたのです」
「どうしてそれを知っているの!」
私は微笑んだ。
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