狼の死刑宣告 その2
木曜日、五限目の授業を終えると、珍しく生徒から質問を受けた。
二年C組出席番号24、福岡
「桃山先生、授業とは関係ない質問をしてもいいですか?」
黒い髪を後ろで束ねた姿からも好印象を受ける。大きく黒い瞳は肌の上で煌めいている。明るく明瞭な声も気着心地がいい。なるほど、評判がいいわけだ。
「J.D.ホプキンスについての話かな?」
「え?」
教室を出て行ったり、帰り支度を始める生徒たちの雑音で教室は溢れかえっている。
「マサチューセッツ工科大学名誉教授、J.D.ホプキンスの『新時代への旅』についてだと思ったのだが。君が私の授業中、熱心に読んでいる本のことだ」
「すみません」
「いや、構わない。読書はいいことだ。私も好きだ。君は文句を言われないだけの国語の成績を持っている。そのままで構わない。『新時代への旅』の話だったね。ホプキンス教授の多次元宇宙論は興味深く、私もいくつかの文献を読んだよ。だが、物理学の知識は乏しくてね。有意義な議論をしたいのなら、私ではなく、物理学の教員を選んだ方がいい」
「いえ。多次元宇宙論の議論というのではなく、どちらかというと文学的な質問がありまして」福岡美佐は付箋の貼ってあるページを開いた。「ホプキンス教授は詩人ジョナサン・ミュエンバークの言葉を引用しています。
"人生において、最大の不幸は生まれたときから死ぬことが決まっていることである"
また、十九世紀アメリカの連続殺人鬼ニコラス・アッカーマンの言葉も。
"肉体は滅びるが魂は神のもとへいくのだ、と牧師は言った。死んだことのない人間に、どうしてそれがわかる? "
"命が平等だというのなら、死も等しく平等だ。私の行為は残虐な殺しではなく、平等な最後を与えたにすぎない。だとすれば、どうやって残酷を与える? "
この引用文についてどう思われますか?」
「ふむ。その引用文は忘れていたな。どう思うか、というのは私の個人的な見解を言えばいいのかな?」
「ええ、それも聞きたいです」
「まずはミュエンバーク。彼のこの言葉は長年連れ添った妻を亡くしたときの言葉だ。最愛の者を亡くした悲しみ、それはどんな悲しみなのか、本人にしかわからない。もしかすると、本人にもわからないのかもしれない。だから、ミュエンバークは詩をかいた。この言葉をミュエンバークの視点から理解したいのであれば、その背景を知ることだ。背景とはジョナサン・ミュエンバークという人物の人生と、彼が生きた時代のことだ。時代と置かれた境遇。それを理解することで、一文字一文字を深く読み解くことができる。
聞きたいのは私の見解だったかな。そうだな……。不幸があるなら、幸福があるはずだ。私にはいつか死ぬということは幸福に思える。目的もなくだらだらと生かされ続けるのは、ある種の拷問だと考えているからね。だが、これは私がまだ死に直面していないから言えることなのかもしれない。歳を重ねれば、ただ生きることだけを望むようになるのかもしれない。つまり、死は不幸であり、幸福である。この世のすべては捉え方次第でどちらにもなりうる。現在の私にとって、死は不幸でも幸福でもない。君たち若者の言葉を使えば"フツー"の現象にすぎない。つまらない感想になってしまったかな?」
「いえ、とても参考になります。ニコラス・アッカーマンの方はどうですか?」
「ニコラス・アッカーマンは薬物中毒の殺人鬼だ。自己肯定のために方便を吐いているにすぎない。知能もなければ、文学的な教養もない。感化されるべきではない。ということをまずは念頭に置いてくれ。これでも、私は教師だからね。教師としては、思春期の学生に殺人鬼の言葉を解説するようなことはするべきではない。
読書好きな一個人として言わせてもらえば、的を得ている、というところか。生の平等があるなら、死の平等もあるべきだという主張には賛同しておこう。しかし、アッカーマンの著書を読んだことはあるのだが、文章はあまりにも稚拙だ。死や殺しに関する主張についても一貫性がなく、信念や思想は安っぽく感じられる。幼稚な快楽を羅列しただけだ。その中に、たまたま生まれたのがホプキンスが引用した言葉だ。背景を写している言葉とも思えない。十九世紀アメリカの犯罪心理を学ぶにしても、あまりいい教材とはいえない。個人的には好きではないな。
そうだ。二つ目の言葉には続きがある。アッカーマンは電気椅子にかけられる前、最後の言葉を残した。牧師の証言によると、彼は、わかった、と言ったらしい。今度は私からの質問だ。ニコラス・アッカーマンは何をわかったんだと思う?」
「どうやって残酷を与えるか?」
「ああ。おそらく。だが、牧師が聞いたのはそれだけだ。その先を言わずにニコラス・アッカーマンは死んだ。アッカーマンが死の間際に見つけた答えはなんだと思う?」
福岡美佐はまっすぐに私を見ていた。私、というよりもはるかその先にあるもの、あるいは、私の奥底を覗くような瞳だった。瞬きもしない大きな瞳に私は飲み込まれそうだった。飛び込みたくなるほど美しく、それでいて先の見えない恐ろしさがあった。
興味深い生徒だ。
福岡美佐は答えた。「
私は微笑んでいた。「ニコラス・アッカーマンがたどり着いた答えは生だった、と私は解釈している。死にたいほどのどん底に突き落とし、死の直前で生を与える。それがもっとも残酷なことだ」
福岡美佐は吹き出した。「さすがですね。こんなこと、真面目に答えてくれるのは桃山先生だけですよ」
「少しは私の授業を聞く気になったかな?」
「先生の授業はもともと一番の楽しみですよ」
「それは読書ができるからだろう?」
福岡美佐はそれには答えず、あどけない顔で笑った。
それも聞きたいです。
私はふと、福岡美佐の言葉を思い出した。
それも。彼女はそう言った。彼女が聞きたかったことは別にあったのではないか? この引用文は私を試したつもりだったのか?
私は疑問を口にしようとしたが、福岡美佐の姿はもうなかった。
"精神の宮殿"に乾いたチャイムの音が鳴った。
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