暗殺の森 その3

 合宿所の裏手にある山道にはほこらがあった。無病息災の神を祀っているそうだが、聞いたことのない名だった。無名の神の所以や偉業をどれだけの人間が知っているのだろう。知りもしない神に何かを願ってどうにかなるというのか。私には理解できない。

 結果は祈りではなく、行動の過程によって導かれるものだ。私は神に祈ったことはない。無知で怠惰な人間が身の程知らずにすがるのが、無謀な「祈り」だ。精神のない祈りなど、神でなくとも届かない。

 その祠はやがて、心霊スポットとなった。いつの時代も神話は幽霊と表裏一体だ。人間にとっては神も霊も娯楽のひとつでしかない。信仰や祈りは娯楽であり、祟りや恐怖も娯楽なのだ。

 我らが水泳部の生徒たちにとっても、それは同じことだった。彼ら彼女らはどこかで聞いた話を語り、徐々にその話は膨れていく。口語伝承は原型からかけ離れていくのが世の常だ。

 私の耳にその心霊話が届いた頃には"月の見える夜更けに祠に近づくと、殺人鬼の幽霊が出る"という話になっていた。

 「この辺りで過去に殺人事件があった、ということですか?」私は夕食後のコーヒーを飲んでいた。自動販売機のインスタントコーヒーだった。安物の味だが、こんな場所では仕方がない。

 「いえ、それはわかりません」山本千恵子は眼鏡をクイっとあげた。ネイルはしていないが、よく磨かれ綺麗に切りそろえられていた。何より、白く長く伸びる指先が美しい。「SNSで噂されているようで、この辺では有名な話なんだとか」

 またSNSか。近頃はなんでもSNSだ。私はその低俗な三文字が大嫌いだった。世界のどこにいても誰かと繋がれる。いつどこにいても何に対しても自由に表現を発信できる。実に不愉快だ。どうして、どこにいても誰かと繋がっていなくてはならないのだ。世界の裏側にいても他人と繋がっているということは、このちっぽけな人間社会から逃れるすべはないということではないか。これほどの悲劇が他にあるだろうか。

 表現の自由だなんだと自由を謳うが、無責任な言動を加速させているだけだ。責任のない言動に価値はない。私は私のどんな言動にも責任を忘れたことはない。殺人でさえもだ。昔はテレビこそ人間の生み出した最低最悪の産物だと言われたものだが、現在はSNSがそれに当たる。そんな最低最悪の産物で広がる噂など、犬のクソよりも腐っている。

 「SNS、うわさ。信用の対極にあるものですね。無視するのが賢明だと思います」

 「ええ。私も桃山先生と同じ気持ちです。ただ、生徒たちが……」山本千恵子はばつが悪そうに下を向いた。頬が赤く火照っている。そういえば、彼女は化粧をしていなかった。風呂上がりのように見えた。

 「SNSをやるのは自由ですが、何を信用するのかはよく考えなければなりません。そう指導すればいいのですね?」

 「いえ、あの。それはもちろん、そのように指導していくつもりですが、ことはそう単純ではないのです。一部の生徒たちはこの噂話にすっかり怯えてしまって。保護者の間にも広まってしまいました。学校としては、夜間に先生たちが見回りをするということになったんです」

 「ほう」嫌な予感がした。

 「幽霊はともかく、不審者が出ても困りますしね。それで、今夜は私と桃山先生で見回りしようと思うのですが、よろしいですか?」

 「見回りは構いませんよ。そのための同伴教諭です。しかし、私一人で大丈夫です。女性の夜間外出は控えた方がいいでしょう?」

 「でも……」

 「僕が行きましょう!」そう言ったのは男子水泳部顧問の豊崎だった。出てくるタイミングを待っていたのだ。この男が私たちの会話をこそこそと盗み聞きしていたことは気付いていた。「僕たち二人が行けば、生徒たちも安心できますよ」

 「豊崎先生は明日の当番のはずじゃあ」

 「ええ、明日も見回りしますよ! 生徒のためですから!」豊崎は誇らしげに盛り上がった胸筋を動かした。

 山本千恵子は表情を変えぬまま無言で俯いた。

 豊崎は粘っこい目つきで彼女を見、私に視線を移した。大柄な豊崎の見下すような視線は実に不愉快だった。実際に見下しているのだろう。この男が私をよく思っていないことは感じ取っていた。

 非常勤のくせに、部活動の合宿にまでしゃしゃり出てきやがって。

 私の信頼が厚いのが気に食わないのだ。妬みの粘っこさが滲みでている。

 私はそれが気に食わなかった。脳まで筋肉でできているようなゴリラの鼻くそ程度の知能しか持っていない男に嫉妬を抱かれ、必要以上に絡まれる。不愉快極まりない。

 空気のような存在でありたいと願っているのに、どうして人間関係は複雑に絡まるのだろう。他人との関わりなど求めていないというのに。

 「私は構いませんよ。では、生徒の就寝時間がすぎたらロビーに行きます。それでは」私は二人を残し部屋に戻った。これ以上会話はしたくなかった。

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