第二章 姫路京介の監獄

 姫路京介は雨の音で目を覚ました。時刻はわからなかったが、夜明けまではまだかなりありそうだ。川沿いの高架下はジメジメしていて布団代わりのブルーシートは湿っていた。アスファルトの冷たさが残る身体は疲れが取れていなかったが、気分はそう悪くなかった。

 タイ・サケオ州ロナの港を出港し約四十時間。横浜港から密入国という形で、生まれ故郷に戻って来た。密航の船内では長旅だというのに、ろくに眠ることができず、東京都に逃げ込んだときには疲労は限界に達していた。

 転がるように影を進み、河川を集落としているホームレスの連中に混じりこむことで、何とか睡眠を確保することができた。

 次の問題は空腹だ。人間は生きているだけで腹が減る。腹を満たすには食料を買わなければならない。つまり、金が必要だ。

 姫路京介は南国のタイで囚人だった。罪状は殺人、強盗殺人。刑期は百二十年。詳しい犯行の動機は不明。

 殺人には必ず動機がある。怨恨、金銭目的、あるいは殺すつもりはなくとも当たりどころが悪く死なせてしまうような不運。しかし、姫路の殺人はそのどれとも違った。明確な殺意を持って行われているのは確かだったが、怨恨など他人にわかりやすい理由はなかった。

 揺るがぬ犯行の証拠があり、姫路自身も無罪を主張したりはしなかった。ただ、誰も殺人の動機を測ることができなかった。

 結局、姫路は適当な動機で投獄され、しばらくして脱獄した。その方法はこの先も解明されることはないだろう。

 謎の脱獄囚。人々は彼をそう呼んだ。謎などないというのに。彼は至極単純な理由で行動しているにすぎない。

 姫路京介は過去を振り返らない。過ぎ去った時間を思い出すことさえしようとはしない。彼は全ての過去を捨て去った。ただ一つを除いて。

 過去を持たない彼を、他人が理解することは容易ではない。彼を理解できる人間がいるとするなら、それは彼の過去に存在していた人間なのであろう。過去を共有していた人間。もしも、そのような人間がいるとすれば、彼の"謎"はなくなるのだろう。

 ホームレスとして約二日を過ごした姫路京介に、それほど苦痛はなかった。劣悪なサケオ州立ロナ刑務所に比べれば、自由である分ましな生活とさえ思えた。このまま戸籍も身分もないままの方が安全なのかもしれない。

 が、目的がなければ人間は生きていけない。生きる目的がなければ、自由は自由ではなく、時間の浪費に他ならない。姫路にとって、いや、多くの人間にとってそれは金だ。より多くの金を稼ぐことが生きる目的となる。ただ一つ、多くの人と姫路が違うのは、労働をするつもりがないということだ。姫路にとって、金は奪い取るものであり、稼ぐものではない。異国の地ですべてを失った姫路に躊躇は微塵もなかった。

 最初のターゲットは男だった。年齢はおそらく三十代。名前も住まいも知るはずはなかった。その男がターゲットになったのは、些細な理由からだった。

 ホームレスである自分を見る目が気に入らない。

 男は汚い虫でも見るような蔑んだ目を姫路京介に向けた。ほんの一瞬であったが、姫路の悪意が向くには十分な時間だった。あの目は、いままで自分が他人に向けてきた目だ。目の前の男は、その目で俺を見た。それが理由だった。

 姫路は男を尾行し、帰宅と同時に男の後頭部を殴り倒しアパートに押し入った。凶器は石を詰めた靴下だった。簡単につくれるが殺傷能力は極めて高い、ジャックナイフと呼ばれる武器だ。それまでにも、姫路はジャックナイフを好んで使用していた。

 男のアパートに押し入り、玄関をロックすると、キッチンから包丁を持ってきた。うつ伏せに倒れたままの男を刺すのに力はいらなかった。

 姫路は男をそのままにし、ゆっくりとシャワーを浴びた。湯を浴びたのはいつぶりだろうか。灼熱のタイでは、安宿の多くは水シャワーだ。とくに、ロナでは高級ホテル以外で湯を浴びることはできなかった。

 姫路はバスタオルを腰に巻き、冷蔵庫や戸棚を漁って食べられるだけの食料を胃袋に押し込んだ。カップ麺、冷凍チャーハン、生のブロッコリー……どんなものでも旨く感じ、食すたびに食欲は増した。

 その家の食料を食べ尽すと、クローゼットを漁った。一番大きなバックパックに詰められるだけ依頼を詰めた。

 男が所持していた現金は五万円と少し。数百円の小銭と保険証も奪っておいた。免許証ではなく保険証にしたのは顔写真がないからだ。身分証はなにかのときに使えるかもしれない。それと携帯電話も奪っておいた。

 姫路は遠足の万全な準備を済ませたように安らかに、裸のまま眠りについた。

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