ファントム・メナス その5

 けられている。そう感じたのは夜のランニングのときだった。最初は薄い直感であったが、すぐに確信へと変わった。同じブロックを二周回っても視線がべったりと張り付いていたのだ。

 真っ先に頭に浮かんだのは探偵という言葉。川島里奈が言っていた眞田竜だろうか。あるいは千葉県警の杉澤か。どちらにせよ、接触の意思はなさそうだ。いまはまだ。

 仮に探偵や警察なのだとしたら、ここでまいたところで意味はない。自宅などとうに把握されているだろう。

 どうしたものか。

 私は普段とは違う道を選び、街灯の少ない公園の並木道を走った。ペースを落とし、周囲に目を凝らすことに注力する。暗闇に潜む人間はいない。

 そこだけがスポットライトを浴びて別世界のように光る公衆トイレに入った。蛾やハエたちの世界だ。

 呼吸は乱れていない。当然だ。

 私は勢いよく外に出た。

 虫のさざめき、風の音。木々の演奏、呼吸音。

 そこか。

 私は茂みに近づいた。

「私に用かな? それとも排泄か? トイレなら空いているが?」

 荒い深呼吸のあと、茂みが揺れた。現れた男はベースボールキャップの上からフードを被っていた。暗がりのせいで、顔はよく見えない。が、若い男のようだ。否、若く見える男。

「もう一度言う。私に用か?」私は片目を瞑った。

「俺を忘れちゃったのかい?」男は言った。低い音の中に無邪気さが含まれているような声だった。

 この男は私を知っている。忘れるということは、過去から来た人間。

「人違いということはないのだね?」

「俺が君を間違うはずがないだろう、桃李。本当に覚えていないのかい?」澄んだ声に記憶が刺激される。

 私は開いている方の目で今を見て、閉じている目で過去を見た。

 "精神の宮殿"は一つの扉にたどり着く。

「千歳」私は両の目を開き彼を見た。「千歳京介」

 千歳京介は少年のように笑った。「思い出してくれて嬉しいよ。もっとも、いまは千歳じゃないんだけど」

「どうして尾け回したりしたんだ?」

「いまは母方の姓を名乗ってる。姫路京介。それがいまの俺さ」

 私はため息をついた。まるで会話になっていない。一方的に球を投げるだけではキャッチボールではなく壁当てだ。

 いや、違うな。私は記憶を辿る。

「姫路京介。タイの刑務所を抜け出した日本人と同じ名前だ。同姓同名だと思いたいが」

「さすが桃李。君なら気づいてくれると思った」

「一応聞くが、冤罪か?」

「どれのことだい?」

「先に言っておくが、匿うつもりはない」

「そんなつもりはないよ。ただ、君に会いたかった」

 私はそれには答えなかった。徐々に暗闇に慣れてきた瞳で姫路京介を観察する。

「どうしてかって聞かないのかい?」

「私が通報しないと思うのか?」

「面倒事は嫌い、だろ? わかっているさ、君のことは。俺が君に会いにきたのはどうしても話したいことがあるからなんだ」姫路の瞳は帽子の下で常に周りを警戒していた。

「その服。小綺麗だな。不快な臭いもしない。こっちに身寄りはないはずだ。逃亡者の末路はホームレスだと思っていたが、そうはみえない。適当な人間を殺して衣類や食糧を調達しているんじゃないか?」

「君はすべてお見通しだね。でも、そんなことはどうでもいいんだ」姫路京介は帽子のつばを掴んだ。顔を隠すように。「近いうちに君の家に行っても?」

「いいわけないだろう」

「そうか。じゃあ別の方法を考えるよ」姫路京介はそういうと走り出した。

 私は彼の後に続いた。それが最善の選択だ。

「ついてきてくれるのかい?」

「話は終わってない。このまま帰せば、君はまた私の前に現れる。それでは困るんだ。私には私の世界がある。わかっているだろう? 厄介ごとはごめんだ」私は片目を瞑って姫路京介の背中を見た。

「俺はね、破壊の神から"ギフト"を授かったんだ」

 何? 私は両目を見開いた。

「君ならきっと、この力を"ギフト"と呼ぶ。だから俺はもそう呼ぶことにしたんだ」姫路京介の息が荒くなり出した。ランニングには慣れていないようだ。ゼエゼエと息を吐いた後、彼は囁くように言った。「俺には君が必要だ。ずっと、君に会いたかった。"精神の宮殿"。君はそう呼んでいたね。俺の宮殿は君を必要としている。きっと、君の宮殿も、俺を必要としているんじゃないか?」

「何を言っているのかわからない」

 「そのうちわかるよ。俺のギフトは君の世界に必要なものだ。必ず、俺たちの世界は交わる。宮殿は一つになるんだ」

「待て、千歳」私はあえて昔の名前で彼を呼んだ。

「続きはまた今度。これ以上は君に迷惑がかかる。そう言えばわかるだろう? それじゃあまた」姫路京介はそう言い残すと速度をあげて暗闇の中に消えていった。

 私は少しルートを変え、疲れたようなふりをして速度を落とした。

 尾けているのは一人だけではなかった。姫路京介は自分が標的だと思っていたようだが、おそらくそうではない。ターゲットは私だ。二人目の人間は私を追っていた。

 走り方や息遣いから、男だとは推測できる。それも、長年運動という選択肢を排除してきた男だ。

 この男が私を尾ける理由は? 決まっている。川島里奈だ。この男は探偵・眞田か刑事・杉澤のどちらかだろう。運動不足の中年男の人物像とも合致する。

 私は木陰に屈み、呼吸を小さくした。

 尾行は一人だと思い込んだのは、私のミスだ。迂闊だった。が、ここから好転させればいいだけの話だ。

 私の走ってきた道を一人の男が通った。男は息を切らし、とてもランニングとは言えないような不恰好な走りで、ノロノロと夜道を進む。サイズの合わないジャージを着た男だった。ブカブカのジャージは普段よりもワンサイズ大きいと思われる。上下の色のくすみ具合とくっきりと刻まれた折り目から、中古の安物を慌てて買ったのだと推測できる。例えば、急にランニングを尾行することになったように。

 これは勘だが、この男は探偵の方だ。ハードボイルドに憧れ、成りきれない男の方だ。

 どうして私を尾けた? いまここで"膨張"させるべきだろうか。

 いや、待て。感情的になるな。それは"正しい道"ではない。宮殿を穏やかに保て。

 私は心で息を吸い、彼が遠ざかるのを見送った。

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ディープ・ファイブ 京弾 @hagestatham

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