ファントム・メナス その2

 翌日も天候に恵まれ、カラッとした陽気の浜辺の散歩は気持ちが良かった。リトル・ブラッキーは時折足を止め、運ばれてくる潮の香りと貝殻の匂いを興味深そうに嗅いでいた。

 私は今日もスキューバをする予定だ。この辺りではサザエの獲れるスポットがあると聞いたことがある。今日は景色だけでなく、海の幸を手に入れることを目的とするつもりだ。

 人間は食事によって形成されている。ベジタリアンの私と肉を好む私がいたとすると、外見が同じであっても別人といえる。豆の缶詰めばかり食べる私は神や仏に祈り、カブトムシを育てることを趣味にするような人間かもしれない。朝からステーキを食す私は、背中にタトゥーを彫りサウナで人を殺すような人間かもしれない。

 バランスの良い食事と新鮮な食材を愛するから、いまの私が存在しているのだ。

 食事が違えば、私の人生の分岐点はいまとは違っていただろう。私はそんなことを考えながら、酸素ボンベをチェックし、ウェットスーツをバッグにしまった。

 そこで電話が鳴った。普段は使用頻度が低いのに、休暇を楽しんでいるときに限って電話は鳴る。けたたましい着信音と鬱陶しい振動に辟易した。

「桃山です」

 星城せいじょう高校からの電話だった。かけてきたのは高校二年の学年主任大溝おおみぞ寛治かんじだった。

「お休みのところすみません。重要な話がありまして、いま大丈夫ですか?」

「ええ」私は抑揚のない声で言った。

「C組の福岡美佐にのことでちょっと……」

「なんでしょうか?」

「昨日未明に、お母様が亡くなられたそうで……」

 人は誰しもいずれは死ぬ。避けられない事象であろう。私になんの関係がある? 

「どうやら、何者かに殺されたようで、警察も捜査に乗り出しているんです、はい。学校の方にも、はい、来ていまして」

「それは残念です。私に何かお役に立てることがあると?」

「はい、あの、福岡美佐さんなんですがね。どうやら、お母様が殺害されたとき、外出していたようなんです、はい。それで、殺害された直後に帰宅した、そのようなんです。詳しいことは話したがらなくて。桃山先生になら、話してもいい、こう言っているわけなんです、はい」

「福岡美佐から話を聞けと?」

「ええ、はい。話を聞いて心のケアをお願いできればなと、はい」

「わかりました。福岡美佐はいまどこに?」

「学校で保護しております。すぐに来ていただけますか、はい」

「物理的に遠い所にいるので、少し時間がかかります。が、今日中には行きますよ」

 福岡美佐の母親が殺されたのは気の毒だが、私にはどうでもよいことだ。私にとっては海の幸の方が重要だ。しかし、それを知られては学校での私の立場が危うくなるのも事実だ。児童よりも休暇を優先した。その情報はどこから流れるかわからない。どこでだれが見ていて、何かを発信される。それが、この忌まわしき情報化社会の掟だ。

 人間社会で生きていくためには、社会的な身分が必須だ。そして、ストレスのない"宮殿"を維持するためには、小さなコミュニティ空間内である程度の信頼が必要なのだ。

 仕方がない。

 私はこのあとのスケジュールをすべてキャンセルし、星城高校がある新宿区へ車を走らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る