ファントム・メナス その3

 教室の自分の席にぽつんと座る福岡美佐は、白いTシャツにスキニータイプのブルージーンズというラフな格好だった。裸足のまま上履きを履いていて、他の人間ならば不格好に写るだろうが、彼女は上履きすらも履きこなしていた。遠くを見つめるような瞳の奥は暗く、久しぶりに母校を訪れた卒業生のような哀愁もあった。

「死んだ人間の魂はどこにいくと思う?」福岡美佐は虚空を見つめたまま語りだした。「天国か、地獄か。生きている人間には、永久にわからない。だがね、私にはわかるのだよ」

「ニコラス・アッカーマン『暴力の手引き』。いつしかの君との会話のあと、私はアッカーマンの手記を読み直してみたよ。酷い文章だという感想は変わらなかったが」私は彼女の隣の席に腰を下ろした(この席は誰の席だったか。確か、斎藤文男。いつも肩にフケを載せ、レバーのような体臭を放ち、聞き取りずらい早口で話すつまらない男子生徒だ)。「こういうときにかける言葉を、私は持ち合わせていない。心の平穏のために、文学は至高の癒やしになる。その中に、アッカーマンは含まれていないと思うが。必要なら、私が精神の骨と肉になる作品を教えるが?」

「あいつが言ったんです。予想はしていましたが、この言葉がアッカーマンのものだとは知りませんでした」

「あいつ?  それは、お母さんを殺害した犯人のことか?」

 福岡美佐は肯定も否定もせずにいた。「マンションの前の通りでした。フードを深く被った若い男。そいつが言っていたんです。誰に向かってともなく。ぶつぶつと聞き取れない独り言ではなく、はっきりと語りかけるようでした。耳心地のいい声でした。フードから覗く顔も、醜さや不潔さはありませんでした」

「その男が殺したと?」

「そのときはなにも感じませんでした。でも…」福岡美佐は唾とともに言葉を一度飲み込んだ。「私は確信しています」

「そうか」私は言った。無性に煙草を吸いたいような気分だった。私は煙草を吸わないが、喫煙者が吸いたくなる瞬間というのはきっとこういうときなのだろう。「実を言うと、私がここに来たのは学校に頼まれたからなんだ。でなければ、休みの日にわざわざ職場に来たりはしない。君から聞き取りをしろ、といったようなことを言われたよ。君が犯人を目撃したのではないか。そう思っているのだろうね。まあ、彼らの事情など知ったことじゃないが、君が容疑者から外れていたことには安心した。

 いまの私は休日出勤。非常勤講師の私に時間外勤務の給料が発生するのか、はなはだ疑問だ。おそらくは、これは善意の行いであり、職務ではない。一銭にもならないのだ。だとすると、私が彼らに従順である理由はあるのだろうか?」

 福岡美佐はこの日はじめて、私の顔を見た。彼女の瞳の奥に炎が灯るのを感じた。私には、その炎の意味がわかった。彼女は私の言葉を、深く理解している。

「私は母を殺したやつを許しません。必ず、殺すつもりです」福岡美佐の言葉には重みがあった。

「復讐したところで、死んだ人間は戻ってこない。死んだお母さんも、そんなことは望んでいない」私は福岡美佐を観察していた。彼女の精神は揺らいでいないようだ。「なんていうのは聞き飽きた言葉だな。死んだ人間が本当に望んでいることなど、生きている人間にわかるはずがない。優先すべきは、生きている人間の生き方だ。人間は"精神の宮殿"を持っている。水泳部顧問の豊崎のように、すかすかで薄っぺらい藁の家を持つ人間もいるし、私のように荘厳な宮殿を持つ人間もいる。宮殿には安らぎが必要だ。精神の安らぎ。宮殿からの風光明媚な情景が、精神に安らぎを与えてくれる。安らぎのために、必要な行為があるとするのなら、それがどんなことであれ、他人に止める権利はない」

「たとえ殺人であっても赦される?」

「己の精神に、という意味ならもとより赦しなどは必要ない。安らぎのための最善策として殺人があるのだから、もとより精神は許しているといえるだろう。だが、この人間社会の法という概念の中では、罰せられるべき悪だ。どんな理由があろうと、完全なる悪だ。理解しなくてはいけないのは、そこだよ。法を犯せば、正義を掲げる人間たちから追われることとなる。他人が土足で"宮殿"に入りこんでくる。安らぎの対極だ。宮殿を守るためには、"正義"の人間たちに疑われないことだ。証拠を残さないのは当然のこと、痕跡すら残してはならない。一切の疑念を抱かさずに、殺す。それができるのなら、"精神の宮殿"は保たれる」私はそこで一呼吸置いた。「普通は無理だ」

「私にはそれができる。そう言ったら信じますか?」

 私は微笑した。「刺殺、銃殺、毒殺、絞殺。方法はいくらでもある。しかし、誰にも気づかれない完璧な方法で人間を殺すなど、ほぼ不可能だ。どんなやり方でも、一見完璧に見えても、どこかに必ず綻びはある。有能な人間はそこから犯人を見つけ出すのだ。そして、問題は方法だけではない。精神のあり様だ。殺人を犯すより前から、この先未来永劫、その行為を正当化し続けなければならない。罪の意識を感じたり、後悔の念に苛まれたりしてはならない。確固たる強い意志を保ち続けなくてはならない。揺らぎは"宮殿"の景観を損なうからね。精神の昇華のためには、自らの行動はすべて正しい道でなくてはならないのだ。本当にあれは正しい行いだったのか。本当に、あれ以外の選択肢はなかったのか。あとで自己を疑ってはいけない。疑いや後悔のない正しい道が"宮殿"には必要なのだ。殺人という行為をして、その道を進み続けられるか? 正しい精神を保ち続けられるか? 私の言っているのはそれだよ。普通の人間には無理だ。だから、殺人は過ちなのだよ」

 福岡美佐は躊躇わなかった。彼女の瞳は炎を絶やさなかった。「私には完璧な方法がある。そして、それを行う精神もある。先生の言う"精神の宮殿"は、それが正しい道だと言っています」

「いっときの感情ではないのだね?」

 福岡美佐は力強く肯定した。

「これ以上、私は何も言わない。ここでの話はたわいもない雑談だ。他言はしない。君は君のためにも、大人たちの望む生き方を見せなさい。実際にその通りに生きなくとも、表向きはそう生きているように見せなさい。人間は、自分の望む通りに生きている人間を正常だと認識し、想像できない生き方をする人間を異常だと判断する生き物だ。正常は疑いの対極だ。正常な姿を見せていれば、疑いは離れていく。これは私からの助言だと受け取ってくれ」

「ありがとうございます。理解しています」

「残るは事務手続きだ。それは私の方、というか学校が適当に進めるだろう。君も適当に進めなさい。いつまでも警察や教員から逃れることはできない。同情の集まるこのときに、適当に済ませておけばいい。何かあれば、私が相談に乗ろう」私は福岡美佐にハンカチを渡した。

「これは?」涙など流しませんよ。彼女からはそういった強い意思を感じた。

「女性の、それも女子高校生の涙っていうのは、かなり強力な武器だ。使えるものは使った方がいい。だとすれば、大人たちの前で泣いてやるのも悪くない。もっとも、プライドが許せばの話だが」

 福岡美佐は天使のような顔で悪魔のように微笑み、私のハンカチを握りしめた。

 こうして福岡美佐との密談は終わった。

 そのあとは淡泊なものだった。福岡美佐は大人たちの言う通りに動き、大人たちは勝手に話を進めていく。事務的な作業と事務的な同情が行き来し、私の学校は再び平穏に戻りつつあった。

 福岡美佐の母親を殺した犯人は結局わからずじまいというわけだ。

 私が気になったのは、無論犯人の正体ではない。福岡美佐に関することだ。そう、私は確信していた。

 福岡美佐には能力がある。彼女はディープウイルスの感染者だ。

 おそらく、ラム少年のようなシックスではない。あの日、彼女が胎内にいたはずはないのだから。しかし、だからといって私と同じファイブであるとも限らない。新たなディープが存在するのかもしれない。

 福岡美佐のディープが私より強いか弱いか、この際どちらでも構わない。重要なのは私のディープファイブが成長できるかどうか、だ。そのために、彼女には被験体となってもらう。

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