ファントム・メナス

 宿に戻ったのは午後六時だった。地平線に沈んでいく夕日と潮風が私の"宮殿"を豊かにしてくれる。

 私はリトル・ブラッキーを連れ、浜辺を散歩しながら夜間食堂を訪れた。昔ながらの日本料理の店だが、犬も同伴可というグローバルさが気に入った。

 一杯目のアサヒビールで渇いた喉を潤す。よく冷えたビールに、意図せずごくごくと喉は派手な音をたてた。ビールを飲み終わらないうちに日本酒を注文し、もみじおろしとゆば刺しと一緒に食す。鮮魚の刺身が届く頃には、日本酒の旨さを思い出していた。私は刺身のときしか日本酒を飲まないのだ。

 カツオのたたきとしまあじが特に好みだった。少し足を伸ばせば、新鮮な食材を味わえるというのが千葉の良さだ。私は地産地消の料理屋は贔屓にしよう心に決めている。千葉という言葉を耳にして落花生しか出てこないのは恥ずべき無知といえよう。

 しかし、私の気分を害すものがひとつだけあった。有線から流れている音楽だ。

 その曲の名前は知らなかったが、流行りの音楽であることは確かだ。近頃どこに行っても耳につくから。歌詞やメロディはまったく心に入ってこないが、粘っこい排水溝のヘドロのように耳にだけこべりついて離れない。どこにでもいそうな顔をした人間が歌う等身大の歌。不愉快だ。

 次に流れてくるのはジャパニーズ・ロック。強い言葉と公には憚られる下品な言葉を並べただけの歌詞。その歌詞が"独特"だという。これがロックとは、世も末だ。言葉を深く考えないから強い言葉に惹かれるのだ。日本の教養のなさを世界に露呈しているようで恥ずかしくてならない。

 私はこれらを音楽とは認めていない。こんなものは雑音だ。

 これ以上雑音が"精神の宮殿"に流れてくると、外壁が壊れるような気分がしたので、リトル・ブラッキーを膝の上にのせ心臓の音を聴くことに集中した。彼の体温と鼓動は宮殿を安らかにしてくれる。我が愛犬のおかげで、"精神の宮殿"はサンセットのように優雅で穏やかになった。

 夕食後、私たちは宿にもどり、風呂に入った。宿泊施設には大規模な温泉大浴場があったが、もとより私は入るつもりはなかった。大海原を臨む豪華な温泉であったとしても、それ以上に他人の裸体が我慢ならないからだ。どこを向いても必ず視界に入り込んでくる。他人のペニスを眺めながらどうして風呂に入れよう? 私は大浴場というものが大嫌いだ。

 コテージには小さいが浴槽もあり、個人用サウナも付いていた。フィンランド式に造られた浴室だった。悪くない。

 ゆっくりと身体を清め、私は眠そうにあくびをするリトル・ブラッキーを助手席に乗せ、愛車のホンダS800でショッピングモールへ向かった。

 この地域のショッピングモールでは、駐車場でドライブ・イン・シアターの上映会を行っていた。今夜の上映作はドラマ『ツインピークス』の一挙上映からはじまり『イレイザーヘッド』へと繋がる。そう、デビッド・リンチ特集だ。リンチ好きの私としては必見のイベントだ。この旅行の半分はこの上映のためといっても過言ではないのだ。

 今宵、波の音が聞こえる駐車場にはいくつもの車たちが並びデビッド・リンチの世界を待ちわびていた。車内の人間は年配者が多く、私は若い部類に入っていた。もっとも、闇夜のおかげで車内はよく見えなかったが。映画が人類の生み出した最も高貴な産物であるのは当然として、人間の姿をまじまじと見なくて済むことからも、暗い映画館や夜のドライブインシアターが私は気に入っていた。

 上映が始まるまで、私は周りの車を眺めていた。多くはオートマチック車や電気自動車で旧時代の産物は見当たらない。私のエスハチがもっとも古いように思う。

 古いものが良いとか新しいものが悪いとかではない。車は時代とともに移動手段になっている。運転技術が必要とされなくなっていく便利な移動手段だ。科学の進歩は素晴らしいが、私にとって車はそうではない。車がただの移動手段であるなら、所有する必要はない。車はロマンなのだ。機能性よりもデザイン性を重視し、スピード調整は自らの力量でマニュアル操作。それがいいのだ。昔は私のロマンと世間のロマンが一致していたが、だんだんとズレてきている。この世界にはもう、ロマンはないのかもしれない。

 チャンネルを合わせたカーステレオから『ツインピークス』のテーマが聞こえてきた。助手席のリトル・ブラッキーもうっとりと舌をだしているように見える。いい映像作品にはいい音楽がつきものだ。

 巨大スクリーンに映されたスノコルミーの滝を眺めながら、私の思考は映画について駆け巡りはじめた。

 いまや、日本映画は死んでいる。

 タランティーノ監督最新作だといえば、内容を見なくとも劇場に足を運ぶし、イーストウッドが新作を撮れば、とりあえず見ておこうとなるのが人情だ。はたして、日本にそれほどの人物は存在するだろうか? 現状、是枝裕和ただ一人ではないか (私は白石和彌こそ日本映画を引っ張っていくと信じているが)。

 次にあがるのは押井守か。新海誠か。だがそれは、アニメーションだ。説明せずとも、日本のアニメ作品が世界一なことは知っている(渡辺慎一郎は間違いなく世界一だ)。しかし、あくまでアニメーションであって、実写映画ではない。映画という枠では、日本は最底辺にいる。原作コミックを考えなしに映像化しただけの作品や、どこかでみたような話を流行りの役者を使って作る。安っぽいテレビドラマの延長線にあるのが、日本の大作映画だ。

 技術の進歩で一見美しい映像は簡単に作れるようになった。そして、それだけだ。誰が撮っても美しいだけの映像は、それ以上にはなれない。心に訴えるものはなにもない。

 小手先だけの監督や芸人まがいの脚本家がインターネットで話題になることだけを考えたような映画しか作らない。駄作が駄作を呼び、病原体のように蔓延していく。だから、ポン・ジュノは外へいき、キム・ギドクは生まれない。

 日本映画は死にゆく一方だ。

 ローラ・パーマーの遺体から電話の音が聞こえた。それは私の携帯電話の音だった。

 この世には二種類の人間がいるそうだ。電話がかかってきたら誰だろう? と心をときめかせる人間と、どこのどいつだ! と悪態をつく人間だ。

 今日の私は明らかに後者だった。精神の聖域を犯す者にときめくはずがない。

「桃ちゃん?」電話の向こうで川島里奈は言った。「いまどこにいるの?」

「館山だ」

「館山? そう。それじゃあ今日も来ないのね」

「ラムの捜索だ」私は嘘をついた。

「うん。そうね。そうだよね。わかってる。ただ、来てほしいなと思っただけ」

「行くときは、こちらから連絡するよ」

 川島里奈のもとからラム少年が失踪してから、私は里奈と肉体関係を持っていた。誘ってきたのは里奈だった。どんな意図があったのかは知らないが、私に拒む理由は見つけられなかった。

 里奈は息子の失踪で深い悲しみの底に沈んでしまった、というテイで日常をやり過ごしているようだった。家賃の支払いがすぎても、息子が居なくなってそれどころではなかった。仕事の手の抜きよう、そのほか大抵のことは失踪を理由に都合よく立ち回っていた。私をもとめてきたのも、きっかけに使ったのは失踪だった。里奈がどこまで本気で、息子ラムの心配をしているのかは測りかねた。もうすでにこの世にはいないと諦め、自暴自棄になっているのだろうか。

「桃ちゃん」電話を切ろうとしたとき、里奈は思い出したように言った。「そういえば、眞田竜がまたうちに来たの。あたしのことを疑っているような気がする」

「眞田竜?」

「津田沼の私立探偵。言ってなかったっけ? 警察のなんて言ったかな、杉澤? って刑事に言われて。信用できるからって言うのよ。だから、眞田探偵事務所に行ったのよ。全然、役に立たなかったけど」

「眞田竜というのは私立探偵なのか? どうして私立探偵が君の家に来るんだ?」

「ラムを探すため。決まってるでしょ」

「これは探偵の扱う事案ではない。いっぱい食わされたな。その杉澤刑事と眞田探偵はグルなんだよ。最初から君の息子を探すつもりはない。君を疑って、君を探るために探偵が現れたんだ」

「どういうこと? あたしのなにを疑うっていうの?」

「殺害。あるいは遺体遺棄。刑事と探偵は、君が息子を殺したか、遺体を棄てたか、その両方かと疑っているのさ」

「そんな! あたしはなにもしてない! そんなこと考えもしなかった。そんな馬鹿なことはない!」

「ならどうして、探偵が依頼人を嗅ぎまわるんだ? 君が息子を殺し、失踪したことに見せかけている。そう疑っているからなんじゃあないか?」

「そんな……」

「信用するな。警察も探偵も。探偵の方は明日にでも依頼を打ち切った方がいいかもしれないな。費用だけふんだくられるぞ」

 電話口から鼻をすする音が聞こえた。

「里奈。私がいるじゃあないか。私は君が殺したとは思っていない。それどころか、ラムは生きていると考えている」そう。ラム少年は生きているだろう。私には感じる。

「桃ちゃん」

「いいか。探偵には気を付けろ。尾行には十分にね。それから、盗聴されているかもしれない。私に電話するときは、緊急の場合を除いて公衆電話からかけるんだ。いいね?」

「うん。わかった」

「それで? 探偵は何を聞かれた?」

「あたしの個人的なことを聞かれた」

「個人的なこと?」

「仕事のこととか、八月何日には何をしていただとか、彼氏はいるのか、とか。あとは……」里奈は煙草を吸った。「あの子の父親のこととか」

「君は何と答えたんだ?」

「テキトーによ。大丈夫。桃ちゃんのことはなにも言ってないから」

「また何か動きがあったら教えてくれ。私は引き続きラムくんを探すよ」私は意味ありげに一呼吸置いた。「里奈。私は君の味方だよ。君を信じている」

 そこで電話は終わった。

 川島里奈に容疑がかかるのは想定内だが、まさか探偵が現れるとは思わなかった。

 探偵は両極端だ。ヤクザ紛いの凶暴性と意地汚さを持つ金の亡者か、好奇心と正義感が強い仕事を誇りにする人間か。前者なら取るに足らない存在だ。だが、後者なら、確実に私へとたどり着き、少年失踪と関係なくとも私の過去を掘り進めるだろう。職務で動く警官よりも、誇りと信念で動く探偵の方が厄介だ。そういう探偵は納得を得るまで追い続けてくるからだ。

 眞田竜、といったか。早急に手を打たねばならない。

 もう一度、電話がなった。

「桃李か? おまえの予想通りだったよ。あの少年は感染者だ。それでいて、亜種。ディープファイブにもA型とかB型とかあるのかもしれないな。インフルエンザみたいに。桃李をA型とするなら、少年はB型って感じ」石上太一は興奮気味に話し続けた。

 私は川島家から採取したDNAを石上に渡し、ディープファイブが含まれているのか検査を頼んでいた。結果を見るまでもなく川島ラムが陽性だということはわかっていたが、分析は必要だ。情報を整理し、冷静に分析することで進む道は確かなものとなる。

「川島羅夢の"ギフト"は桃李と同じ"膨張"に加え、"引力"を自在に操れる。物体と物体は引き寄せ合う。電子レンジが浮いたのは、引き寄せあう引力を逆方向に変えたからだと思う。電子レンジを凹ませたのも同様の力だ。磁石のN極とN極が反発するように。"引力"の"反発"なんだ。おそらく、少年は自分の方に引力を強くすることで、離れたものを引き寄せ、動かなくとも手に取ることもできるはずだ。

 少年の亜種、そうだな、名付けるならdeep06だ。少年は二〇〇六年に生まれたわけだからね。ディープシックス、桃李のディープファイブの次のステージって感じかな。二〇〇六年に生誕。その意味がわかるかい?」

「あの日、彼は胎内にいた」

「そう! 二〇〇五年の彗星と噴火の日、川島羅夢は母親の胎内にいた。母親、川島里奈がディープファイブに感染し、ウイルスは胎児へと移り、彼はそのまま生まれたんだ。おそらく、ディープ・ウイルスは胎児へ移るときに変異したんだ。どういう仕組みで、どういうエネルギーが働いたのかはわからない」

「川島里奈の方は?」

「微量のディープファイブが確認できたよ。本人の検査をしてみないと確証は得られないけど、きっと川島里奈に"ギフト"はない。彼女は感染したことにさえ気付いていないんだと思う。母体が得た"ギフト"はすべて胎児へと吸収された」

「私の"ギフト"も進化することは可能だと思うか?」

「不可能ではないと思う。でも、ディープシックス変異の経緯がわからないとどうしようもない」

「ラムがいればなんとかなるか?」

「いまよりはね。でも、その子いなくなったんでしょう?」

「ああ。しかし、死んではいない。私にはわかる。感じる、と言うべきなのだろうか。共鳴反応というのかな。磁石のN極とS極が引かれ合うように、私たちにも見えない力が働いているんだ。我々のdeepが共鳴している。彼がどこにいるのかはわからない。でも、生命を感じている。近くにいけば、これはより強くなる予感がある。私はディープウイルスの引力を信じる」

「君が言うならそういうことなんだろう。僕は研究を続けるよ」

 私は電話を切ると、リトル・ブラッキーの背に触れた。規則正しい鼓動が私に癒しを与えてくれる。

 スクリーンのクーパー捜査官はボイスレコーダーに向かって熱心に話し続けていた。

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