第4章 桃山桃李の宮殿
二〇一三年十月。週末の三連休を利用して、私はリトル・ブラッキーと館山に旅行した。海に臨むリゾート施設で、旅館のほかプールや温泉なども含まれていた。私たちが宿泊したのはそのうちの一つのコテージで、庭が砂浜へとつながっており、動物と一緒に泊まることができた。
土曜日の昼前に宿につき、リトル・ブラッキーにコテージの番をさせ、私はボートを借りて沖にでた。
目的はスキューバだった。私の大いなる生き甲斐の一つだ。
オープンダイバーのライセンスを持っているが、公式に潜るとなるとインストラクターやガイドといったバディを必要とされるし、十二メートルほどしか潜ることができない。静かな海の中を他人と泳ぐなど考えたくもない。ライセンスは学ぶために取得したにすぎなかった。
ボンベやウェットスーツを他人と共有することもしたくない。見も知らぬ他人が来たスーツを着られるか? 本当に洗っているのか? 洗っていたとして、それだけで汗っかきのおっさんの股の汗は拭えているのか? 私は他人を信用しない。
海底で聞こえるのは私と海洋生物の呼吸だけ。これほど心休まる場所はない。私の宮殿にはいつのまにかドチザメが泳ぎ、エイが揺れていた。これがいいのだ。精神の宮殿に他の人間は不要だが、その他の生物ならいくらだって入ってくればいい。そういう宮殿だ。
いつまででもそうしていたかったが、人間には酸素の限界がある。ボンベがあればいくらでも潜っていられるわけではない。ボンベの空気を吸い続ければ、やがて窒素のみせる幻覚に溺れてしまう。ヒトは海中で生活することはできないのだ。
潜水病も人間が背負う枷である。潜水はゆっくりと浮上もゆっくりと、急浮上は不可避。神秘的で美しい海には常に死が潜んでいるのだ。
しかし、死は回避できるものだ。知識と経験が生へと繋ぎとめる。
時間をかけて進む上下の海を心ゆくまで楽しめる。有限なこの時が愛おしく思う。
ボートを返却しにいくと、店のオヤジは通常よりも割増の料金を請求してきた。時間は厳守していたし、ボートには汚れひとつつけていないというのに。
ボート屋のオヤジはぶっきらぼうに煙草をくわえ、競馬新聞を見ながら断固として値を下げなかった。おおかた、競馬で少ない給料をすったのだろう。負けを私から取り戻そうという魂胆はみえていた。やりたくもないレンタルボートの商売と安い賃金にうんざりしている顔だ。
どんな仕事にも誇りが必要だ。
職は生き方と同義でもある。どうでもいい、テキトーでいい、そういう誇りのない生き方が長続きするはずがない。こんな生き方でいいのか。モヤモヤとした疑問はふとしたときに襲いかかる。常に劣等感や自己嫌悪を抱いたまま生きていては、精神は向上しない。精神が向上しなければ人間である意味はない。崇高な精神こそ、人間の証しなのだ。
私は教師という職業に誇りを持っている。学問、文学を学び人類特有の言葉を深く理解する。生涯をかけても理解できるのはほんのごく一部でしかない、人類という生物の叡智を扱っている。
そして、私が学んだことを教え、生徒を導く。学問を通して精神の向上を説き、正しい方向へ導く指導者だ。
学校という場で最も求められているのは、受験戦争を勝ち抜き志望校に合格するための学力だろう。それは技術だ。定められた時間内に決められた数の"問題"の"答え"を記す技術だ。どうすれば素早く"答え"にたどり着けるのか、近道を見つける技術を伝授するのが、一般的な学生が欲する学力といえよう。
本当の意味での学力。精神の進む正しい道を見つけるための力は、受験勉強というカテゴリーでは養うことはできない。技術とは別の能力が必要なのだ。
私が教えているのは、後者の能力だ。立場上、技術の伝授も怠ってはいないが、"教える技術"を持っていれば短時間で済む。あとは、残りの時間を"精神の向上"の教えに当てる。技術の伝授の中に、本当の学力の授業を織り交ぜる。これこそ、教師の腕の見せどころなのではないだろうか。
私は他人を"正しい未来"へと導いている。"正しい未来"とは、私の考える"正しい未来"であり、神でも聖職者でも世間でもない。私の授業こそが最も"正しく"、"精神の向上"へと繋がる。そして、この授業により、私の"精神の宮殿"はさらに強固で荘厳なものに成長していくのだ。
これが私の職に対する誇りだ。
誇りとは精神だ。確固たる"精神の宮殿"を持つ人間は誇り高いのだ。誇りある人間が、自らの職を蔑ろにするはずがないだろう?
だがら、一般的にいう「仕事ができる、できない」とは「誇りがあるか、ないか」で決まる。
このボートのオヤジに誇りはない。いい加減な仕事ぶりを見ればその"精神"がどれほどのものか考えるまでもない。彼に"宮殿"と呼べるものはない。愚かな人間だ。
私は言われた通りの金額を払った。彼が死なずにするだのは、星空に浮かぶような海底の景色が、まだ私の中に残っていたからだ。
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