少年は残酷な弓を射る

 記憶は財産だ。過去とは、二度と体験することはない過ぎ去って消失した現実だ。過去と限りなく同じような体験をすることはできる。だが、それは疑似体験にすぎない。時、感覚、すべてにおいてまったく同じ体験をすることなど不可能だ。失って二度と手に入らないと理解しているから、人間は過去を振り返り、過去に憧れる。

 私の場合、憧れという感情ではないが、過去を振り返ることはある。過去があるから、いまの私が形成されている。私と私に関わった人間たちの痕跡が、いまの私を形成する。人付き合いを好まないとはいえ、この世界に生きている以上、たった一人でどの人間とも交わらないことはできない。どんな関係であれ、人間は人間とともに生きていかねばならない。

 この宿命はときに味方をうみ、敵をうむ。未来の私の前に現れる人間は味方なのか敵なのか。味方は必要ない。友人や恋人という関係はこの先にも求めてはいない。残るは敵。未来に現れる敵は過去からやってくるものだ。

 恨み、妬み、感情は様々だが、私に対して過去に負の感情を抱いた人間が、未来の私の敵となる。だから、私は過去を振り返る。明瞭な過去の追体験のために、記憶する。

 子供の頃から、私は起こった出来事をできるだけ細かく記憶するように心がけている。記憶力は力なのだ。

 川島里奈が現れたときも、彼女との過去は瞬時に思い出すことができた。彼女は私が十五のときに付き合っていた女性であり、初体験の相手でもあった。

 私の生徒たちの多くは、私のことを性欲の欠如した変人だと思っているようだが、それは大いなる勘違いだ。人間の雄である以上、私にも性欲はあるし、思春期はあった。

 中学生。思春期の真っ只中、異性に性を強く感じる年頃だ。私は川島里奈と関係を持った。彼女に対して特別な好意はなかったが、彼女の方が私に好意を寄せていたのだ。

 川島里奈は当時、「ギャル」と呼ばれる種族に属していた中学生で、勉学やスポーツとは対極に位置する存在だった。最先端の化粧やネイルで、これでもかというほど派手に着飾るものが多い種に属していたわけだが、彼女はその種の中でも少しだけ異質なところがあった。化粧やネイルは嗜む程度。決して派手すぎず、美を強調させるための道具として限度内の役割でしか使用していなかった。自分の生の容姿に自信があったからできたことなのかもしれない。彼女の顔面は化粧がなくとも整っていて、体形も健康的でスマートだった。

 容姿端麗の女子からアプローチを受けて、断る男がいるだろうか? 

 私たちは人並みのカップルのように付き合い、夜をともにした。幸せな時間ではあったが、その関係はあまり長くは続かなかった。

 中学を卒業し、私は私立の進学校に進み、川島里奈は通信制の高校へと進んだ。住む世界が違うとは別れの常套句だが、私たちの場合も同じだった。若者の精神のキャパシティでは、理解できるものの範囲が限定的なのだ。

 高校へ進学してすぐに、川島里奈は私に別れを告げた。私に悲しさ、寂しさ、悔しさといった感情はなかった。むしろ、「フラれる」という誰もが経験する挫折、悲しみの代名詞を経験できたことを喜んでいた。ヒトは経験することで理解を深める生き物だからだ。若いうちに多くを経験することは、のちに財産となるのだ。

 あれ以来、川島里奈とは会ったことはない。思い出すことさえなかった。彼女が私の世界から消えて十四年あまり。再び現れた彼女が空白の時間をどう過ごしてきたのか、私は知らない。

 実際のところ、興味があるわけもなかったのだが、二十九歳になった川島里奈は勝手に身の上を話しだしていた。

 もともと不良気質だった川島里奈は、通信制高校を二年で中退し、水商売関係の仕事に就いた。十七歳のとき、交際していた不良グループの頭と結婚し、十九歳になる前に離婚。その男との間に子供はいなかった。その後、何人かの男と関係を持ち、二十一歳のときに男児を出産。父親は不明で、再婚相手はいない。

 以上が川島里奈の一時間にも及ぶ経歴説明の要約だ。

 これまでの会話で、川島里奈が私に対し負の感情を抱いていないことはわかった。かといって好意を持たれていても困るのだが。そこのところはまだなんとも言えない。

 川島里奈が息継ぎをするように煙草を吸うのを見て、私の脳に中学時代の情景が浮かび上がってきた。

 中学一年、「道徳」という名の特別授業だった。その授業では、喫煙の危険性について、一時間もの(正確には1コマ五十分)授業が行われた。うんざりするような内容だったが、まだ子供だった生徒たちは真剣に耳を傾けていた。

 授業の最後に、担任の女教諭は言った。

 さて、皆さん。ここまでの話を聞いて、大人になったら煙草を吸いますか? 吸わないと思う人、手をあげて。

 脅迫に近いような掛け声に、私を含めたクラスの生徒たちは手をあげた。長時間恐怖を植えつけられ、脅された子供たちがそうするのは当然の結果だ。もっとも、私は目立たないように多勢に合わせていただけのことだが。大人になったら、そのときに正しいと思うことをする。経験も知識も少ない子供の私が、あれこれ口出しするのはナンセンスだ。

 教諭は全員が手をあげているのを目にし、満足したように頷いた。

 では、煙草を吸おうと思う人はいますか? 

 この問いかけが蛇足だった。

 ただ一人、川島里奈は手をあげていた。全員ではなかったのだ。彼女はたった一人、喫煙をすると未来の意思表示をしたのだ。

 教室には居心地の悪い間ができていた。病気やなんだと延々とリスクを聞かされてきたのに、どうして喫煙しようと思うのか理解できないと子供たちの顔は語っていた。

 教諭の方はより複雑だったようで、怒ることも注意することもできずにいた。自分の説明する道徳が無意味であったかのように感じ落胆し苛立ち、自身の未熟さに打ちのめされているといった様子だった。

 成人した後どうするかは本人の自由だ。小学校教諭が指図できることではない。女教諭は複雑な表情のまま授業を終えるしかなかった。

 あれから十七年あまりの時がすぎた。あの道徳を受けた生徒たちは大人になり、多数が喫煙している。喉元過ぎれば熱さを忘れる。そういうものだ。

 喫煙が良い悪いの話ではない。ただ右にならえで集団と同じ行動をするのではなく、自分で考え、自分の感情に従って行動する。集団にいても自己を見失わないような川島里奈の生き様には尊敬を覚えた。

 私は川島里奈が煙草を消したのを見て、現実に戻ってきた。

 二十九歳の川島里奈は巻いた派手な髪色の毛に派手なネイルと学生時代からあまり変わってはいないものの、素の容姿の衰えを隠すように、けばけばしさは増していた。キッチンに立ったのは遥か昔の調理実習が最後なのではないだろうか。

 化粧には変化が見られる。時代の変化に合わせ、いまも流行に乗り続けているのだ。体形は、全体的に肉がついた印象だが、太っているとは感じさせない、ちょうどよさをわきまえているようだ。母乳のせいだろうか、胸は以前より膨らんだようだ。ぜい肉や体重の増加が、色気を増大させる役割を担っている、稀有な例なのかもしれない。

 「それでね、桃ちゃん先生だって聞いたから、マコトに連絡先聞いたのよ」川島里奈はカフェラテをすすった。

 私たちは稲毛のカフェにいた。

 マコト、とはおそらく鈴木誠のことだろう。中学、高校と私の同級生だった男だ。現在は連絡を取り合っていないが、私は高校時からメールアドレスも電話番号も変えていない。鈴木誠が私の連絡先を知っていても不思議はない。

 「ほら、あたしって男運ないじゃない? ホント、クズばっかりでさあ。だから、桃ちゃんしかお願いできる人がいないんよ」

 「お願い?」

 「えっ、マジ? 聞いてなかったの?」

 私はすまなそうな顔をつくり、頷いた。記憶は細部まで遡ることができるが、そのとき、現実が曖昧になるのが欠点だ。それらしい表情は保っていられるが、会話は雑音でしかなく私の中には届いてこない。

 「マジか。なんか相変わらずって感じ。犬をね、どうにかしてよって話。あのね、あたしの団地の近くに広い公園があんのよ。そこに捨てられた犬がいてさ、息子が毎日会いに行ってるのよ。汚いからやめなさいって言っても聞かなくて」

 「団地じゃ飼うこともできないだろうな」

 「てか飼うつもりないって。動物好きじゃないし」

 「その公園の管理者は何もしないのか?」

 「うん。公園って、ほらあそこよ、アシカのオブジェがあるところ。遊具も何にもないだだっ広い空き地みたいなとこ。覚えてない?」

 「あれはアザラシだよ」

 「どっちも一緒でしょ」

 「全然違う。アシカの前足はヒレ状だが、アザラシには短い五本指がある」他にも違いはあるが、説明は省いた。どうせ興味はないだろう。

 川島里奈は新しい煙草に火をつけた。

 「その犬を処分すればいいんだな?」

 「処分って。別に、殺してなんて頼んでるつもりはないのよ」

 「保健所に連れていけばいいんだな、と聞いたつもりだった。その犬がそのあとどうなるのか、興味があるか?」

 「別に。聞きたくないかも」川島里奈は細い煙草の灰を落とし、天井に向けて煙を吐いた。ピアニッシモだろうか。メンソールのにおいが微かに漂う。

 「とりま、これからきてくれる?」

 「どこへ?」これから私が向かう場所よりも、変な口語を使う彼女の向かう未来の方が気になっていた。

 川島里奈は煙草を消した。「あたしんちに決まってんじゃん」

 「決まっているのか」

 「そろそろ息子が帰ってくんのよ。あの子がいねえとさ、犬がどこにいるかわかんねえじゃん?」

 息子ときたか。子供は好きではないのだが。避けられないこともある。

 カフェの代金は私が払った。川島里奈はそれが当たり前だというふうに、先に店の外に出ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る