第32話 夜空に咲く、あの花よりも その5

「ん?」


「どうしたの、千里せんり?」


いずみがいない」


「え、あれ、泉さん?」


 目を逸らした隙に、すぐ横を歩いていた万里ばんりが姿を消していた。

 由宇ゆうは足を止めてキョロキョロとあたりを見回し、陽平ようへいは恋人を守護まもるために、その肩を抱きよせる。


「泉、泉!?」


 右を見ても左を見ても、もはや激流と呼ぶのが相応しい人、人、人。

 花火の時刻が迫るほどに、その勢いは増す一方だった。

 ゾッとするものが背筋を駆け上がってくる。


――アイツ、どこ行ったんだ?


 由宇に倣って周囲に目を走らせると――見覚えのある白い浴衣が視界の端をよぎった。

『いったい、どうして?』などと悠長に考えている暇はなかった。


「くそっ」


 足が、勝手に動いた。

 続いて、口も。


「悪い、先に行っててくれ」


「ちょっと、千里!」


「千里、どこ行くの!?」


 暇もなければ迷いもなかった。

 人の流れに逆らって、歩行者天国を横向きに突っ込んだ。

 道行く人にぶつかって、頭を下げて……由宇たちの声がどんどん遠ざかっていく。


――すまん。


 心の中で頭を下げ、万里の背中を追った。

 海で出会ったあの日の夕暮れ、満員電車に乗ることを嫌がっていた彼女の姿が思い出される。

『人ごみ=痴漢』

 考え過ぎだと言いたいところだが、万里の場合はジョークじゃすまない。


「……まったく」


 毒づきながらも歩みは止まらない。

 横から押されて、ぶつかられて、足を踏まれて、怒鳴られて。

 ほうほうの体で裏路地に辿り着いた千里は、そこに屈みこんでいる白い浴衣姿を見つけた。

 ホッとして、ギョッとした。

 彼女は、小さな人影と向かい合っている。

 女の子だ。幼稚園から小学生の低学年といったところ。

 少女(あるいは幼女)は――泣いていた。


「泉、その子は?」


 後ろめたさが拭い切れなくて、声がわずかに上擦った。

 彼女を追いかけながら『これは抜け出すチャンスでは?』と期待したのは確かだった。

 決していかがわしい理由でふたりきりになろうとしたわけではないが……それはそれ、これはこれ。


真壁まかべ、どうしてここに?」


「どうしてって、泉がフラフラしてるから危ないと思ったんだが……」


 最後まで口にすることなく、涙を零している幼女に目をやった。

 大通りを歩いていた彼女がこの子の泣き声を耳にして、どうしても見過ごせなくて、ここまでやってきた。

 そういうことに違いない。

 なお、当の幼女は――千里を見るなり、万里の陰に隠れてしまった。

 人気のない路地裏に微妙な静寂がおりる。


「……真壁」


 困り顔な万里に『気にするな』とジェスチャーで伝える。

 昔から『目つきが悪い』とか『顔が怖い』とか、よく言われてきた。眼鏡で誤魔化してなお同年代にすらビビられるくらいだから、相手が小さな子どもとなると『仕方ないな』と納得せざるを得なかった。

 慣れてはいるが、嬉しくはない。


――落ち着け、泉は悪くない。


 後頭部を掻きむしり、ふーっと息を吐き出した。

 眼鏡を外して眉間を指で揉んで、再び眼鏡をかけ直す。


「その子、迷子……だよな?」


「そうみたいね」


 万里は幼女から手際よくアレコレ聞き出していた。

 幼女の名前は『はしもと ひより』で幼稚園の年長組、今日は母親と一緒に花火を見に来たが……その母親とはぐれてしまったとのこと。


「お母さんと連絡取れる?」


 問いかけに、ひよりは小さく首を横に振った。

 面倒なことになったと思いながらも、落胆はなかった。

 連絡が取れるなら、こんなところでひとり泣いてはいないだろう。

 万里の瞳が千里に向けられる。漆黒の輝きに、わずかな困惑が滲んでいる。


「こういうときって、どうすればいいのかしら?」


「……どこかに迷子を預かってくれる場所があるんじゃないか?」

 

 知らんけど。

 言いながら、首を傾げた。

 迷子になったことがないから、そういう場所が存在するのか確信が持てなかった。

 万里はうんうんと頷いている。

 迷子になった経験があるのかもしれない。


「それは、そうよね。真壁、大会本部の場所はわかる?」


「わからん。調べてみるか……ってダメだ、電波が死んでる」


「……人出が凄いからね」


 スマートフォンがインターネットに繋がらない。

 万里もきんちゃく袋から自分のスマホを取り出して、ディスプレイを白い指で撫で――力なくため息をついた。


「おねぇちゃん?」


「ううん、何でもないよ」


 不安げに見上げてくるひよりの頭を『大丈夫だよ』と優しく撫でる万里だったが……傍目には『大丈夫だよ』と自分自身に言い聞かせているように見えなくもない。

 一方、千里の心の中は――冷や汗でダラダラだった。


――ででででで、電波が通じないだと!?


 スマホを握る手に力が籠る。

 脳裏をよぎったのは、もちろん白雪しらゆきと企てた計画だった。

 彼女と連絡を取りつつ隙をついて万里と抜け出して合流する手はずだったのに、肝心のスマホが使えないときた。


――ま、まぁ……まずはこの子をどうにかしないと、高峰との計画に支障が出るかもしれんし?


 連絡は後で考えればいいか。

 千里は即座に頭を切り替えた。

 現実逃避している自覚はあった。


「近くの屋台で本部の場所を聞いて、そこまで連れて行くって感じかしら?」


「客に聞くより店に聞いた方が確実だな。それじゃ……」


 頷いて、万里は腰を浮かしかける。

 頷いて、千里は逆に腰をかがめた。


「ほれ、おぶっていくから乗ってけ」


 背中を向けると、なぜか万里が目を丸くする。

 桃色に艶めく唇がわななくも、言葉はカタチになっていない。

 ひよりはギュッと万里の浴衣にしがみつきながら、千里にチラチラと視線を向けてくる。


「……この子は私が連れて行くから。真壁、花火に間に合わなくなるわよ」


「バカ言うな。ここでお前らを放っていくとか、ありえん。男が廃る」


「男が廃るって、そう言う問題? それに、日高ひだか池澤いけざわだって……」


「小さい子どもを歩かせるには危ない。由宇と陽平には後で連絡しておく」


「スマホ繋がらないのにどうやって?」


「……アイツらなら、わかってくれるだろ」


「普段はまともなのに、ときどき適当よね、真壁って」


「ま、ふたりきりで花火デートってのもいいんじゃないか」


 そう続けると……万里は大通りに目を向けて、千里を見つめた。

 彼女の濡れた眼差しには、申し訳なさが強く溢れている。

『その顔は逆効果だぞ』と笑いが込み上げてきた。

 もちろん、余計なことは口にしなかった。


「……あのふたりはそれでいいとして、アンタは?」


「こっちの方が大事だ。花火は来年また来ればいい」


 今からひよりを本部に連れて行っていては、花火の打ち上げを見ることはできない。

 せっかく来たのに……万里は、そう言いたいのだろう。

 わかっていたから、あえてアッサリ答えた。

『気にするな』ってな感じで。


「……そっか」


「そうだ」


「そうね。うん、ありがとう、真壁」


 万里はふわりと笑みを浮かべて、ひよりの頭を撫でる。

 千里の言い分に理があると認めた、あるいは説得を諦めた。

 そんな顔だった。


「ひよりちゃん、このお兄さんが背中に乗せてくれるって。私たちと一緒に行こう」


「でも、知らない人について行っちゃいけないってママが……」


「うん、それはそうなんだけど……私、ひよりちゃんをここでひとりにしておけない」


「……おねぇちゃんと一緒に行ったら、ママに会える?」


「会えるよ。ねぇ、真壁?」


 見上げてくるひよりの瞳は揺れていた。

 母親の言いつけを守るか、それとも……みたいに迷っていると見えた。

 万里の真摯な説得に心動かされたのもあるだろうが、断ったらここにひとり置き去りにされるかもしれないという未来への不安も混じっているだろう。


「ここで泣いてるよりはマシだ」


「真壁!」


「いや、事実だし」


「それはそうでも、言い方ってものが……」


 ずっと穏やかだった万里の眉が吊り上がる。

 透き通るような声にもチクチクと棘が混じり始めた。

 剣呑な空気の中で、ひよりの瞳が万里と千里の間を往復し始める。

 そして――


「えっと、えっと……私、おねえちゃんと一緒に行く。ありがとう、おじさん」


「……『お兄さん』な。俺、こっちのお姉さんと同い年だから」


 訂正を求める隣では、万里が何とも言い難い表情を形作っていた。

 ひよりは満面の笑みを浮かべて――ハッキリと口にした。


「うん、わかった。ありがとう、おじさん!」


「このガキ……いい性格してるな」


 唸り気味に毒づくと、額を白い指に弾かれた。

 万里にデコピンされたのだと、少し遅れて気が付いた。

 痛みはなかったが何となくこそばゆかったし、顔がカーッと熱くなった。

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