第11話 こんなにも青い、この空の下で その3

真壁まかべって結構ガッシリしてるよね」


「結構って、どういう意味だ?」


「どういうも何も、普段あんまり運動してるイメージないし」


 万里ばんりの白くて華奢な手が、千里せんりの胸元を這いまわる。

 その手つきが妙にくすぐったかったが、逃げることはできなかった。

『逆だったら、とんでもないことになってるよな』と思って……呆れるだけにとどめた。


「運動は……最近は、ほとんどしてないな。中学までは水泳部だったんだが」


「え、初耳。『中学までは』って、やめちゃったの?」


「やめるも何も、うちには水泳部ないだろ」


「それはそうだけど……あるところに行こうとは思わなかった?」


「思わなかったな。ガキの頃からスイミングスクールに通ってて、その流れで何となく続けてただけだったし」


「ふ~ん。でも、泳ぐのは得意だったんだ」


 甘み強めな囁きが耳をくすぐってくる。

 ほとんどゼロ距離からの吐息は、破壊力抜群だった。

 千里たちは今、波打ち際を歩いていた。万里に肩を貸しながら。





 色々見えてしまっていることを告げるなり絶叫した万里は、顔を真っ赤に染めながら水着を整えた。直後は恨みがましげな眼差しとともに口をモゴモゴさせていた万里だったが、彼女の胸中は結局ひとつとして形にはならなかった。

 もちろん千里は背中を向けていたのだが……水が跳ねる音に交じって、鼻にかかった声や布地がこすれる音が聞こえてきて、心休まる暇はなかった。


『もういいから』


 声に従って振り向いた千里が目にした顔は――平静を取り戻しているように見えた。

 ……と言っても状況が好転したわけではない。

 顔を見合わせあって、視線は合わなくて、言葉を失って。

 身動きひとつとれなくて……でも、座りっぱなしにもいかなくて。

 ジリジリとせりあがってくる焦燥と羞恥の狭間で、先に口を開いたのは万里だった。


『肩、貸して』


『……いいのか?』


『いいも悪いもないでしょ』


 まだ立てないし。

 プイっと横を向いたまま頬を膨らませる万里をじ~っと見つめることしばし。

 その意思に変わりがないことを確信して、千里は万里の脇の下にそっと腕を通した。

 近づいたとき、肌に触れたとき、腕を回して支えたとき、いずれも万里はわずかに身体を強張らせたが……文句の類を口にすることはなかった。

 そして、歩き始めて――


――当たってるんだがなァ!


 万里の胸が。

 千里の胸に。

 さっきまでほど暴力的な接触ではなかったものの、薄い布地越しの感触は相も変わらず千里の脳裏を焼き尽くす。

 それだけならいい。

 いや、決してよくはないのだが――もっとよくないことが(よくなくはないのかもしれないが)進行中だった。

 万里がおとなしくしてくれないのだ。

具体的には、自由になっている左手を千里の胸に這わせてくるのだ。

 その手つきが、とてもエロい。

 ゾワゾワしてくる。耳を掠める吐息もヤバい。

 思わず万里に目をやると、示し合わせたように漆黒の瞳とかち合った。


『なに?』


『それは俺のセリフなんだが』


『言いたいことがあるんなら、ハッキリ言いなさいよ』


 怒っているのか笑っているのか、よくわからない声だった。

 艶めく瞳といい、吊り上がった口の端といい、それほどご機嫌斜めな感じではなさそうだったが。

 とにかく。

 ところかまわずペタペタと触りまくってくる手のひらが、辛うじて押さえつけていた邪な感情をいやがうえにも煽り立ててくる。


『なんか、手つきがいやらしいぞ』


『……見たくせに』


『うごッ!?』


 その五文字は、あまりにもクリティカル過ぎた。

 拗ねたふりして上目遣いで責め立ててくる万里に『何を見たってんだ?』と問い返すことなど、とてもではないができるはずもない。

 彼女の濡れた髪から垂れた水滴が、自分の身体を伝って落ちていく。

 摩訶不思議で違和感バリバリの光景に――ため息が漏れた。言葉は出てこなかった。


――なにがどうしてこうなった……


 頼むから教えてくれ。

 心の中でどこかの誰かに願った。

 肩を貸している万里には尋ねられなかった。

 視線を外して、奥歯を噛み締め……不意打ちでわき腹を撫でられて、ゾクゾクした快感に身もだえさせられながら――現在に至る。

 万里の手は、止まらない。





「今さらなんだけど、休むところってある?」


 吹きかけられた声に、千里は首を横に振った。

 浜辺は人がいっぱいで、今から休憩できそうな場所を探すのは現実的でない。

 熱く焼けた砂の上に彼女を寝かせるつもりはなかった。ゴツゴツした岩場は横になるには辛そうだったし、そんなところに万里を連れ込むなんて……これから何かやらかしますと宣言しているようなものだ。

 岩場なんて場所は、たいてい人目がない。

 身体の自由が利かない少女との組み合わせは、否応なく危険極まりない想像を刺激してしまう。


――いや、やらないけどな! 絶対何もしないけどな!


「……真壁?」


 きょとんと見つめてくる万里の視線を交わしながら、念のために千里もあたりに視線を巡らせて――四方八方から注がれる眼差しに気づかされ、身体の奥からカーッと熱が込み上げてくる。


――なんだ? さっきまでは何ともなかったのに!?


 最初から万里は注目の的だった。

 隣に突っ立っていた千里も、ついでにチラチラ見られていた。

 その手の視線は無視していた。周りにたむろしている連中が興味を抱いているのは万里であって自分ではない。

 決して思い上がってはいけない。

 そんなこと、ワザワザ言い聞かせるまでもなかった、のに……


――いや、わからなくはないんだ、わからなくは。


 美少女に肩を貸している。

 言い換えれば、美少女がしなだれかかってきている。

 真っ昼間っから、人目をはばかることなく、まるで見せつけるかのように。

 男の方が千里だからという点はほとんど関係なくて、単純に目立ちまくるシチュエーションなのだ。


「真壁、どうしたの?」


「……なんでもない。休むところ、だったな」


「さっきから言ってるし。変な真壁」

 

 裏返ってしまった声を聴き咎められた。そんな気がした。

 ちらっと万里を横目で見るも、まるで気にしている様子はない。

 白い指で黒い髪をかき上げながら、遠くを見るように目を細めている。


――まつ毛、長いんだな……


 ここまで接近して、初めて気づいた。

 その横顔に見惚れていると、ふいに万里と目が合った。

 ゴホンとワザとらしい咳払いをひとつ鳴らし、慌てて見ていないふりをした。

 本当は――さっきまで万里が触れていた胸の奥で心臓が乱雑に脈動し、全身を熱い血潮が踊り狂っていたのに。

 落ち着け。

 落ち着け。

 落ち着け。

 何度も心の中で唱えて、肺にたまった空気を吐き出した。

 熱く湿った粘着質な吐息が、どうにも気持ち悪かった。


「泉たちはどこかに荷物をまとめてるのか?」


「まとめてない。ロッカーに放り込んで、みんなバラバラ。真壁の方は?」


「……一応レジャーシートもパラソルもあるはずだ」


 答えるまでに一拍を要したし、声に苦みが混じるのを抑えられなかった。

 今日の朝、三人でこの浜辺に来たばかりの記憶が脳裏に甦る。

 ジャンケンで負けて、ナンパのために離れたシート。

 腰を下ろして自分を見送った、ふたりの姿。

 由宇の肩にかかっていた、陽平の手。

 それほど時間が過ぎているわけでもないのに、何もかもが色あせてしまっているように思えた。


――ん?


 奇妙な感覚に眉間にしわが寄った。

 そのまま首を傾げた千里の耳朶を、万里の呟きが弾く。

 誰かに聞かれることを憚っているような、甘くて密やかな囁きだった。


「でも……日高と池澤の邪魔になるんじゃないの?」


「なるだろうな。まぁ……背に腹は代えられんさ」


 おそらくイチャイチャしている(であろう)ふたりには悪いと思うものの、万里は溺れて体力を消耗してしまっている。

 肩にかかる重みや胸に当たる柔らかさは惜しいが、一刻も早く休ませてやりたい。

 どちらを優先すべきかと考えると――すぐに腹は決まった。

 自分の欲望は考慮しなかった、はずだ。


「俺たちの方に行こう」


「いいの?」


「いいも悪いもない。他に行くところがないだろ」


「それはそうなんだけど……本当にいいの?」


「……何が言いたいんだ、泉?」


 繰り返される念押しにイラっと来て声が荒くなった。

 千里自身が驚きを覚えたほどに威圧的な、低温で重たい声だった。

 肌越しに万里の震えを感じたのは、ほんの一瞬……彼女はわずかに身じろぎしただけで、その美貌の中でもとりわけ印象的な眼差しをもって、千里を正面から迎え撃ってくる。


「なんでもないなら、いい」


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