第18話 夏の夢の終わりに その1

 見上げた空は、夏だけあって夕方に近づいても明るかった。

 それでも時間は規則正しく過ぎていて、いつまでも遊んでいるわけにはいかなくて。

 海から千里せんりたちの地元までは結構離れているから、帰りの準備を遅らせるわけにもいかなくて。


「今日は楽しかったね」


「ああ。誘ってくれてよかった」


 早々に着替え終わった千里と陽平ようへいは、肩を並べて余ったジュースを口に運んでいた。

 割ったスイカを食べつくしてから、四人で遊んだ。

 もう、メチャクチャ遊んだ。

 これぞ夏って感じで。

 そして、荷物を預けた海の家に戻って、シャワーを浴びて着替えて現在に至る。

 こういう時、男の身支度は早い。


「僕の方こそ助かったよ。千里が来てくれないと由宇ゆうが……っていうか、由宇の親父さんが……ね」


「いつまでも俺をダシに使われても困るから、そこはきっちり信頼を勝ち取ってくれ」


 真壁まかべ家と日高ひだか家はお隣さんで、物心ついたころから家族ぐるみの付き合いがある。

 千里は由宇の父親とも親しくしているが……まぁ、悪い人ではないと思っている。

 年頃の娘を持つ父親としてまっとうな倫理観を有していて……つまり、娘に寄り付く悪い虫にはとても厳しい人だった。

 ちなみに、良い虫と悪い虫の区別が苦手な人でもあった。


「なんか攻略法とかないかな?」


「地道に行くしかないな」


「やっぱり?」


 力ない、乾いた笑み。

 何事もそつなくこなす印象がある陽平にも、苦手なことはあるらしい。

 自分と日高家のこれまでの付き合い方を語れば参考になるのではないかと思いはしたのだが……特にこれと言って印象に残るイベント的なものはなかった。

 いい感じに表現すれば、特別なことをする必要はない。

 逆に言えば、日々の積み重ねが大切ということだ。


「そんなに頭を抱えるほどのことか?」


「頭を抱えるほどのことだよ。僕たち、高校卒業したら一緒に暮らそうって話してるんだ」


「なん……だと……ッ!?」


 さらりとトンデモナイ発言が出てきた。

 聞き間違いかと思って顔ごと横に向けたら……陽平は確かに首を縦に振った。照れ気味に後頭部をかきながら『いやぁ、あはは』と笑っているが、その目は真剣そのものだった。


――そんなところまで考えているのか。


 置いて行かれたような、羨ましいような。

 ひと言では説明できない感情が胸の中で渦を巻いた。

 ずり落ちた眼鏡の位置を直し、口の中のジュースを飲み下す。


――いや、いいことなんだろうな。


 先を見据えて、ふたりで話し合って。

 それは彼らの交際が順調であり、真剣なものであることの証左といえる。

 長い時間を共にした幼馴染が幸せになってくれることは、千里にとっても望ましいことには違いない。

 ただ……『色々すっ飛ばしているのでは?』と首をひねりたくなるし、驚くことは驚くというだけの話だ。

 同棲。

 聞き覚えはある単語だが、実感は湧かない。

 とりあえず、由宇の父親が烈火のごとく怒り狂うであろうことは容易に想像できた。


「……すまん、ちょっと俺の手には負えそうにない」


「そっか。ま、僕の方は良いとして……千里こそ、いずみさんはどうなのさ?」


 ヘヴィな話題はここまで。

 陽平の軽い声は、言外にそう語っていた。

 つい先ほどまでシリアスだった瞳に強い好奇心が見え隠れしている。

 視線を逃れるべく、千里は頭を上げて遠くを見やった。女子の更衣室の方角だ。

 きっと今頃は万里ばんりと由宇が着替えて帰り支度をしているはずだ。いつ終わるのかはわからない。

 ポケットからスマートフォンを取り出して、ディスプレイをじっと見つめて――結局何もせずに再びポケットに放り込んだ。

『あと、どれくらいかかりそうだ?』

 そんなメッセージを送るのは、さすがに野暮にもほどがある。

 あちらのふたりはブチ切れるに違いないし、後でなだめるのはメンドクサイ。


「辛抱だよ、千里。それより……どう?」


 陽平の声が近くに感じられた。

 たしなめる目的の前段よりも、『どう?』の部分の踏み込みが深い。

 周囲を見回すと自分たちと同じように帰途に就く人影が目に付いたが……助け舟を出してくれそうな心当たりはない。

 適当にはぐらかすには、相手が悪い。

 万里たちのグループには属していないとはいえ、陽平は校内屈指のコミュ強者だ。


「どうって言われてもな。さっきも言ったとおり、たまたま声をかけただけだ。あっちも暇にしてたみたいだから何となく。本当にそれだけだ」


「それだけって、それだけかなぁ?」


「それ以外に何がある?」


「千里も気づいていると思うけど、泉さんって普段は結構ガード固いよね。ほとんど絡みのない男子と遊んだりするかなぁって考えたりしなかった?」


 考えた。

 言われるまでもなく考えた。

 学校で目にする『泉 万里』とは、なんか違うなと思った。

 海に来てテンションが上がっているだけでは説明がつかないほどに、今日の彼女は浮かれているように見えた。

 きっと溺れた彼女を千里が助けた一幕が原因だろう。

 より正確に表現すると、あの時の過剰な身体的接触やら水着が脱げた云々やらで、万里はいろいろ混乱してしまっているのではないかと――


――まぁ、これは言えないにしても……でも、本当にそれだけか?


 疑問はある。

 割と当初から、ずっとあった。

 最初にナンパした段階から、彼女が乗ってくるのはおかしいのではないかと思っていた。

 どうしてあそこで断られなかったのか、これがわからない。

 友人たちへの対抗意識という可能性もあるが……


「……何が言いたい?」


「チャンスなんじゃないかって話」


「たった一日一緒に遊んだだけでチャンスか?」


「チャンスだと思うよ。少なくとも可能性はゼロじゃない」


「それは……」


 そうかもしれないと思ってしまった。

 クラスの中心人物である万里は、男女を問わず友人が多い。

 しかし……彼女は『男子と一緒に海に行くとか、勘違いされたら嫌だ』と口にしていた。

 軽薄に声をかけただけの千里とは遊んだくせに。

 自分とは偶然会っただけだからノーカンみたいなことを言っていたが、後になって考えてみると、あまり論理的な回答ではなかったように思う。

 論理的でない。

 すなわち矛盾だ。

 その矛盾に下心もとい期待を抱かなかったかと問われれば……とてもではないが『ノー』とは言えない。

 色々見てしまった分だけ邪な心が膨らんでいるのも事実だ。

 欲望から始まる恋愛感情という部分に違和感を覚えていることも事実だった。


「興味あるならダメ元って考えてみれば? フラれたって恥ずかしいことじゃないし」


 唆されている気がして、眉間にしわが寄ってしまう。

 校内有数の美少女である万里は多くの男子から告白されていて、そのすべてを断っている。彼女にフラれるのは珍しいことではない。

 一刀両断された男たちの反応は様々で、武勇伝のごとく語る者もいるにはいるが……目も当てられないほどに落ち込む者もいる。

 どちらかというと、後者の割合が多い気がする。


「……恥ずかしくはなくても、怖くはないか?」


「そりゃ怖いよ。僕だって由宇に告白したときは怖かった」


「そうなのか?」


「当たり前さ。人の心なんて目に見えないんだから、自信なんて持ちようがない。実際にオッケーもらえるまで、ずっとビクビクしてたなぁ」


 意外な気がした。

 陽平は見た目が整っているし、運動神経も抜群だし、実家は裕福な資産家だ。

 長所は多いが欠点らしきものは見当たらなくて、性別こそ違えど万里と同等程度には人気があって、当時は由宇から『最近、池澤いけざわくんといい雰囲気なんだけど……私、どうなんだろ? 大丈夫かなぁ?』などと不安を聞かされていただけに、もっと余裕で構えていたと思い込んでいた。


「……なんで告白しようと決心したのか、聞いていいか?」


「なんでって言われても……『告白してうまくいく』『告白してフラれる』『告白しなくて何も起きない』って三つ並べてみたら、答えはひとつしかなくない?」


『何も起きないってのはフラれるのと変わらないよ』と嘯く陽平に同意できる部分はあって……でも、素直に首を縦に振るにはためらいが捨てられなくて。

 自分には勇気が足りない。

 その一歩を踏み出した陽平は、やはり凄い奴だ。


「俺は……」


「ごめ~ん、お待たせ!」


 形になりかけた思いは、遠くから聞こえてきた由宇の声にかき消された。

『この話はまた後で』と肩を叩く陽平に頷いて、声がした方に目を向けて――ふたり揃って言葉を失った。


「うわ」


 陽平の声は、たった二文字なのに震えていた。

 こちらに向かってくる人影が由宇と万里であることは明らかだったけれど、由宇の後についてきた万里の顔が目に見えて険しかった。


 猛烈に、嫌な予感がした。

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