第17話 それは、まるで夢のような その5

「意外と不器用よね、真壁まかべって」


「すまん、手間を取らせる」


「どういたしまして」


 屈んだ千里せんりの耳を囁きが撫でる。

 後ろ手にタオルを結ぶのを万里ばんりに手伝ってもらっているのだ。

『カッコつけてたくせに締まらないわね』と苦笑交じりの声が、鼓膜を通って頭蓋に侵入してくる。


――落ち着け。


 いったい今日だけで何回『落ち着け』と言い聞かせただろう?

 考えるだけでウンザリしてくるし、それだけ激動極まりない一日であったことは間違いなく……そして、今日はまだ終わっていない。


――ここを乗り切ったら、さすがにもう何もないと思うが。


 まるでフラグを立ててるみたいじゃないか。

 バカバカしくなってきて、軽く笑い飛ばそうとして――できなかった。

 代わりにギュッと木の棒を握り締める。無骨な感触が、ともすれば夢想の世界に迷い込んでしまいそうな自分を現実につなぎとめてくれる。

 そんな気がした。


「これでよし!」


「助かった、それじゃ」


「いや、ここ、スイカの目の前じゃないの」


 ほら、行くわよ。

 万里に手を引っ張られる。

 有無を言わせない声。

 華奢ですべらかな手のひら。

 ためらいのない足取り。

 何もかもが心強く、ありがたい。

 でも――


――見えないというのは、よくないな。


 タオルを結んでもらっていた際に、背後に感じた万里の体温。

 耳を掠めた甘い声と吐息。湿り気を帯びた万里の手のひら。

 見えない分だけ、余計に鮮明に記憶に焼き付いてしまう。


「ほら、この辺から行きなさい」


「うおっ」


 いきなり足をストップされて、危うくぶつかりかけた。

 すんでのところで踏みとどまって、心の中でホッと胸をなでおろす。


「真壁、大丈夫?」


「……大丈夫だ。返す返すも」


「はいはい。そういうのいいから、ほら!」


 感謝の言葉を口にする間もなく両肩をつかまれて――ぐるぐる回される。

 たちまち平衡感覚が乱れに乱れて、棒を構えた今も足元がおぼつかない。少し時間を取りたいところだったが……落ち着いてしまったら面白さが半減してしまう。

 意を決して歩き出した千里に、方々から声援が飛んだ。


「千里、前だよ!」


「右~~~」


「前よ、真壁」


――落ち着け。


 視界はない。

 手に握る棒がやけに重い。

 足の裏を焼く砂も、降り注ぐ陽光も、とにかく熱い。

 お世辞にもコンディションは良好とはいえない。


――とは言え、最悪というほどでもないか。


 先ほどのピリついた光景から、万里と由宇ゆうが正反対のことを口にするのではないかと警戒していたが、別にそんなことはなかった。

 いずれにせよ、由宇の態度がしっくりこない。

 何の理由もなく敵対心を露にするような奴じゃなかったのに。


――落ち着け。今はスイカだ。


 大きく息を吐いて、吸って。

 タオルの下で目を閉じて、耳を澄ませて。

 三人の声を聞いているうちに――だんだんとわかってきた。


「千里、右……あ、ごめん、やっぱり左」


 由宇は取っ散らかった指示を出すが……長年共に暮らしてきたせいか、本当のことを言っているか否かは声で聞き分けられる。

 根本的に嘘をつくのが下手。

 そういうところは、千里がよく知る素直で善良な幼馴染の姿とぴったり重なる。


「前、あと十歩」


 陽平ようへいは細かい。

 そして、嘘はつかない。

 サッサとスイカを割りたい点では意見を共にしているから、邪魔する理由がない。

 揺れる万里の胸をガン見していた彼氏に向けられた由宇の瞳は、控えめに言ってヤバかった。


「真壁、右!」


 万里は声かけそのものが少ない。

 その控えめな態度は、これまで教室で目にしてきた一軍女子な姿とは重ならない。

 でも、陽平と同じで嘘はつかない。

 単に空気を読んでいるのだと思った。

 自分が目隠しされている間の由宇の様子を知っているわけはないにしても、ここで失敗してもう一巡というのは単純にテンションが下がる。

 四人の最後、千里が割ってハッピーエンド。それがいい。

 もともと勝ち負けを競うゲームではないのだから。

 そんなことを考えているような気がした。

 

――ここだな。


 指示に従いながら足を進めていた千里が、歩みを止めた。

 三方向から飛んできていた指示も、いつの間にか止まっていた。

 緊張をはらんだ沈黙がのしかかってきて、ピリピリと肌が粟立って。

 両手で振りかぶって――叩きつけた棒の先から、砂ではない鈍い感触があった。





「いや~、やっぱスイカだね」


 さして広いとは言えないレジャーシートに四人で腰を下ろしていた。

 千里が振り下ろした木の棒は無事にスイカに直撃していたが、もちろんそのまま食べるわけにはいかない。

 用意してあった包丁で丁寧に切り分けられて、皿に盛りつけられた。

 清涼感のある甘いにおいが鼻をくすぐってくる。


「まずは千里から選んで」


「まぁ、当然よね」


「文句なし」


 三人に詰め寄られては遠慮のひとつもできはしない。

 ここで小さなものを選んではひんしゅくを買いそうな気配を察したので、一番大きい奴を手に取った。

 由宇も、陽平も、万里もそれぞれスイカを手にして――


「それじゃ、いただきます」


「「「いただきます!」」」


 口の中でくしゃりと果肉が崩れて、甘味と水分があふれ出してくる。

 普段はそれほど食べたいと思わないのに、こうして口にすると美味いと思える。

 

「冷えてないのは仕方ないね」


「冷たいのが食べたかったら、家で食べればいいさ」


「この空気って言うかロケーションを含めるから、こんなに美味しいんじゃないかしら」


「違いないね」


 それぞれに食べ方は違っている。

 万里と陽平は上品というか丁寧という感じ。

 由宇は――猛烈に遠慮がない。ハムスターみたいに口いっぱいに頬張っている。


「由宇、スイカはまだあるから、そんなに焦らなくても」


「む~」


 止める間もなく赤い部分を食べきった由宇は、ふたつ目に手を伸ばしている。最初の遠慮はどこへやら。

 あまりジロジロ見るとケチをつけられそうだったので、千里は視線を空に飛ばした。

 空は相変わらず高くて青い。

 遠くでは白い入道雲がモクモクと湧き上がっている。

 太陽は中天を過ぎて西に傾いてはいるものの、威力はいささかも衰えない。

 

「夏だなぁ」


「夏ねぇ」


 隣に座っていた万里も、いつの間にか空を見上げていた。

 濡れた唇が妖艶な輝きを放っている。

 口の端から垂れていた果汁を指で拭ってペロリと舐めた。

 千里に向けられていた流し目が、スーッと細められた。


「あのね、いずみさん」


 千里が口を開くより、由宇が口を開く方が早かった。

 いつもはハキハキしている幼馴染にしては重い口振りと、籠り気味な声。

 万里に向けられた視線は真剣そのもので、『もうふたつめ食べたのか?』などと茶化せる空気ではなかった。


日高ひだか、なに? どうしたの?」


「うん……あの、その……ごめんなさい。私、すっごく感じ悪かった!」


 由宇は、すっと頭を下げた。

 千里も陽平も、口を挟む暇はなかった。

 万里は――整い過ぎた顔に苦笑いを浮かべた。


「日高と池澤いけざわが楽しんでるところを邪魔したのは私の方だから、イラつくのは当然じゃない?」


「それもあるけど、そうじゃなくって」


「じゃあ、なに?」


 踏み込む万里。

 怯む由宇。

 男ふたりは目配せを交わしあって沈黙を守った。


「……だってその、泉さん、凄くおっぱい大きい……じゃなくて大人っぽいし、千里も陽平も泉さんばっかり見てるし」


「そう?」


「泉さんは見えてなかったと思うけど……さっきのスイカ割りのときとか、ふたりとも凄い目してたし」


「それは初耳」


 万里が意味ありげな視線を送ってくる。

 気づかないふりをしようとして、失敗した。


――由宇の奴、余計なこと言いやがって!


 歯噛みしたが、文句を口にすることはできない。

 どうしようもなく事実だったからだ。

 なお、陽平の顔は蒼白だった。


「私だって頑張ったのに、やっぱりダメなのかなって」


「ダメなのは彼女を心配させる池澤よ」


「面目ない」


 一刀両断された陽平は項垂れてしまった。

 萎れてしまったと表現した方が正確かもしれない。

 同じ男として、見ていて悲しくなる姿だったが……いつの間にか由宇に慰められて、お互いに身を寄せ合っていた。


――末永く爆発しろ!


「泉さんっていい人だね」


「直球で言われると、結構照れるかも」


「学校だと話しづらいなって思ってたけど、またお話していい?」


「もちろん」


 万里と由宇の会話が弾み始めた。

 ふたりの世界はどこまでも美しかった。

 割って入れない男ふたりは、黙々とスイカを口に運んでいた。

 陽平と目が合う。


――苦労してるな。


――お互いにね。


 男ふたりだと見つめ合ってもちっともきれいな世界にならない。

 わかってはいたが、少し物悲しかった。

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