第16話 それは、まるで夢のような その4

「あーっ、もう! なにこれぇ!」


 砂の上で由宇ゆうが地団駄を踏んでいた。

 フリルが可愛らしい白のワンピース水着をまとった幼馴染の手には――無骨な木の棒。

 夏の海。

 白い砂浜。

 そして、スイカ。

 千里せんりたち一行はスイカ割りの真っ最中であって、ビニールシートに鎮座する緑色の球体に背中を向けて、由宇が棒を振り下ろした直後だった。

 なお、由宇とスイカの間には結構な距離があった。

 スタート地点より離れている点が微妙に芸術点高めだ。

 千里と陽平ようへい万里ばんりの三人はお互いに目配せを交わしあった。


『何とか言えよ』


 口を閉ざしたまま視線で言葉を押し付けあっている千里たちを余所に、つい今しがたまで視界を遮っていたタオルを外した由宇が残念がっている。

 そういう光景であった。


「全然惜しくないぞ」


「千里うるさい」


『ここは俺がひと肌脱ぐか』と口を開いた千里に、冷たい由宇の声が突き刺さる。

 それが照れ隠しであることは明らかだった。いくら何でも、指示を無視しまくった挙句に、反対方向へ突き進むのはどうなのかと言わざるを得ない位置関係なのだ。


「指示を聞かないお前が悪い」


「ふ~んだ」


 ツンとそっぽを向く由宇。

 子どもじみた振る舞いに呆れていると、そんな彼女に万里が近づいていく。


「じゃ、次は私の番だから」


「う……うん」


――ん?


 一瞬。

 何とも言いようのない間があった。

 万里と由宇の間に緊張が走ったように見えた。

 ほんの一秒にも満たない、わずかな時間に過ぎないのだが……


――勘違い、じゃないよな?


 声には出さずに腕をさする千里。

 妙に空気がピリついていたし、手のひら越しに伝わる鳥肌の感触に間違いはない。

 チラリと陽平の顔を窺ってみると……いつもは穏やかな笑みを浮かべている顔が、かすかに引きつっている。


「あれ、いいのか?」


いずみさんの番なのは確かだし」


「なんで対抗意識を燃やしてるんだ、アイツは?」


「さぁ、なんでだろうね?」


 敵対心というよりは対抗意識、ライバル意識と言った方が近いと感じられた。

 言葉にするとしっくりくるが……由宇が万里にライバル心を燃やす理由がわからない。

 二年生になって同じクラスになってから四か月程度が経過しているが、ふたりの間に接点らしきものは見当たらない。

 今日この瞬間まで由宇の口から万里についての話なんて聞いたことがない。

 ならば彼女が意識するであろう『何か』は、今この時初めて由宇の目に触れたものとみて間違いないだろう。


――となると……


 まず最初に思い付いたのは――胸。

 控えめな由宇と超高校級の万里、ふたりの格差は遠目にも明らかだ。

 ただ、これは……いくら相手が陽平であろうとも、バカ正直に口にすることは憚られる内容だった。


「……わからん。順番、間違えたかもな」


「ジャンケンで決めたんだから、どうにもならなくない?」


「まぁ、そうなんだが」


 スイカ割りに挑戦する順番は『陽平→由宇→万里→千里』になっている。

『千里も起きたし、せっかく海だし、スイカ割りしようよ!』と満面の笑みをたたえた由宇に反論する者はいなかった。

 イチャイチャしていた(穏当な表現)由宇たちはともかく、千里と万里は夏らしいことをしたいと話をしていたし、スイカ割りは候補に挙がっていたもののふたりで割ったスイカを食べきるのは難しかろうと断念したアイデアだ。

 ここで乗っからないという選択肢はなかったし、あまり深く考えていなかった。


「始めるわよ。えっと……回るの、五回だっけ?」


 手早く目隠しした万里が、棒を片手にその場で回り始める。

 一回。

 二回。

 三回。

 四回。


「五回……っと。それじゃ……っとと、これ、バランス取るの難しいわね」


 ふらつく身体を棒きれで支え、剣道の中段に似た構えを取る万里。

 背筋をピンと伸ばした姿は、なかなか堂に入っている。


「……」


「……」


「……」


「ちょっと、何か言ってよ。スイカどっち?」


 沈黙があり、戸惑い気味な万里の声が続き……千里たちは正気に戻った。

 陽平の整った顔には『信じられないものを見た』と驚愕が刻まれていて、フリルに覆われた自分のつつましやかな胸元を見おろす由宇の瞳は昏く濁っていた。

 揺れる。

 跳ねる。

 暴れる。

 踊る。

 無造作にぐるぐる回る足元に合わせて、当然のごとく身体全体がぐるぐる回る。

 紐みたいな水着で覆われた巨乳は、容赦なく揺れた。

 その絶景をビーチバレーの際に拝んでいた千里はともかく、初体験のふたりを襲った衝撃は計り知れない。


――なんだろう、この優越感。


 絶句する彼らを傍目に、千里は口を開く。

 目隠ししたままノーヒントでスイカにたどり着くのは難しかろう。

 生まれたての小鹿のごとくプルプル震える脚ではなおさらだ。


「とりあえず前に進んでくれ。だいぶん距離がある」


「わかった。ねぇ……真壁まかべ以外のふたり、そこにいるのよね?」


 全然声が聞こえないんだけど。

 万里の声には戸惑いどころか不安が滲み出ていた。


「ゴメン、泉さん。僕も由宇もいるから。うん、千里の言うとおり、まずは前に行って」


「……」


 少し遅れて立ち直った陽平はともかく、由宇はすっかり呆然自失してしまっている。

 万里はわずかに首を傾げ――海から吹く風をはらんだ黒髪がふわりと広がる。

 照り付ける太陽に一歩も劣らずに輝く白い肌には、汗がにじんでいる。

 目元はタオルに覆われていたが、彼女の美貌はまるで損なわれることがない。


――絵になるよな、つくづく。


 棒を持っているかどうかは置くとして、立っているだけで存在感が半端ない。

 これは千里だけが思い込んでいるわけではない。近くを通りがかる他の客もチラチラと万里を見てはしゃいだり、ヒューッと口笛を吹いたり、はやし立てたりしている。

 少し大きめに声を出さないと、彼女に指示が届かない。


「前? まだ前? 私、結構歩いたと思うんだけど」


「前だ。たぶん思ってるほど歩いてないぞ」


「ほんとにぃ? ウソだったら割るわよ、真壁」


「怖いこと言うな。何を割る気だ」


「察しなさいよ、バカ。とにかく前ね」


「あ、ああ……」


『バカ』で察した。

 股間がヒュッとする。

 冗談だとわかっていても、怖いものは怖い。


――ん?


 さっきからずっと自分と万里ばかり喋っている。

 陽平の声は、いつの間にか途切れていた。

 その目は――万里の胸にくぎ付けだった。


 そう。

 万里の胸は、歩くだけで揺れるのだ。


 ゴクリと唾を呑む陽平、そんな恋人に向けられた由宇の瞳は澱んでいた。

 彼女の表情筋はとっくの昔に死滅していて、いつもの明朗快活な空気はみじんも残っていなかった。どちらかというと、夜中に遭遇したら悲鳴を上げる系の顔になっている。

 夏の風物詩と言えば、それはそうなのだが……

 首筋に冷たい手が撫でてくる感覚があった。

 千里は口を閉ざしたまま肘で陽平の脇腹をつついた。


「あ、ああ……あれ、僕?」


「意識が飛んでたぞ」


「……そうか」


 ひと言で理解できたらしい。

 目元を指で押さえる陽平に、声を落として囁いた。


「由宇が見てる。アイツを刺激するのはマズいと思う」


「わかってる。僕は、別に由宇と泉さんを比べたいわけじゃないだ」


「わかってる。男だったら、あれには逆らえん」


「わかってくれるか、千里」


「ああ」


 固く握手を交わしあう。

『これ、さっさと終わらせないとヤバいやつ』

 その認識を共有した千里たちは――キッと向き直って万里に声援を送った。


「前、あと五歩」


「右にズレてる。泉さん、左に十度修正して」


「ちょっと、十度って何よ。そんなのわかるワケないんだけど」


「「わかって」」


「男ふたりでハモらないで、キモイ。あ―もう、えっと、左……ここね!」


「「あーっ!」」


 足を止め、両手で棒を高く掲げる万里。

 その姿は見事なものだったが、千里たちの喉から迸った声は悲鳴じみていて――でも、彼女は止まることはなくて――


「えいっ」


 気合いとともに振り下ろされた棒は――空を切って砂を叩いた。

 スイカから、ほんの少しズレていた。

 目隠しを外した万里は肩を落とし、ビッとスイカを指さした。


「「ああ~~~~」」


「惜しい! これ、ほんと惜しいよね」


「ああ。あと少しだったのに」


「踏みとどまってくれれば」


「……なんでアンタたち、私より残念がってるの」


 万里の目つきが胡乱げなものになったのは、ほんの一瞬。

 サクサクと砂を踏んで歩いてきて、棒と目隠しを手渡してくる。


「頼んだわよ、真壁」


 笑って背中に平手打ちをひとつ。

 手のひらが触れた瞬間、千里は熱を感じた。

 ジンジン痛みが滲む背中から、やる気がみなぎってくる。


「よし、俺が絶対に終わらせてやるからな!」


「だから……なんでそんなに気合入ってんの、真壁」

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