第15話 それは、まるで夢のような その3

「ねぇ、真壁まかべ


 とろけるように甘やかな声が鼓膜を通じて脳を揺らす。

 隣に横たわっている万里ばんりが、わざわざ耳元に唇を寄せて囁いてくる。

 手とか肩とか触れている部分はとても柔らかくて、暖かくて、乾いた海水や汗がねばりつく感覚がある。


「なんだ?」


「真壁って……私のこと、どう思う?」


「どうって?」


「だってさ、アンタには全部見られちゃったし、私としてはその辺が気になるワケ」


 迫る万里の瞳は艶めいていて、その眼差しは真剣そのもので。

 いい加減な答えを口にすることが憚られる雰囲気に、正直なところ気圧された。

 いつの間にか周囲から音が消えている。ギラつく日差しもどこか遠くに感じられる。

 まるで世界に自分と万里のふたりしかいないような、奇妙な錯覚の中に寝転がっていた。

 

「どうって、それは……」


 言葉が喉から出てこない。

 好きか嫌いかならば、好きだろう。

 ……というか、万里を嫌う理由がなかった。

 さっきのラッキーなアクシデントを抜きにしても。

 ただ……この状況でそんなことを言われたからには、彼女が求めている答えはもっと別の、もっと深い関係性のことだろうと推測することはできる。

 推測できるだけで、口にできるかは別の問題だ。


いずみのことは、いいやつだと思ってるぞ」


「そうじゃなくて」


 絞り出した答えは、一刀両断された。

 万里の目蓋が下りて、長いまつ毛の奥で煌めく漆黒の瞳が鋭さを増した。

 適当な言い逃れは許さない、そんな気迫をひしひしと感じる。


「ライクか、ラブか。私が聞きたいのはそういうこと」


「……だよな」


「だよなって……わかってるんならハッキリしなさいよ」


 正面から、至近距離から咎められる。

 胸に太い杭を打ち込まれたような衝撃があった。

 吸血鬼だったらお陀仏だけど、幸か不幸か千里は人間だ。

 まごついている間にも万里の顔が近づいていて、柔らかくしっとりした肢体がのしかかってきて、とてもではないが逃げることができる状態ではなくなっていた。

言うしかない。

 そう思ってはいるのだが……


――でも、それっていいのか?


 好意の順序がデタラメではないか。

 そんな思いが千里せんりを躊躇させている。

 普通なら……出会って、話し合ったりイベントを消化したりして距離を詰めて、告白して付き合って、そして、ハグしてキスして――身体の関係に至る。

 これが正しい順番なのかはともかくとして、好きな異性の身体を目にするのは、流れの中ではかなり後半に位置しているように思う。

 それに比べて自分たちは……何の脈絡もなく出会って、何となく意気投合して、遊んでいるうちに万里の裸を見てしまった。


――いや、全部見たわけじゃないんだが。


 口を開きかけて、やめた。

 何の言い訳にもならないと思ったからだ。


「なぁ、泉」


「なに?」


「その……そういうことは、もっと手順を踏んでだな」


「手順って、別にどうでもよくない?」


「どうでもいいのか!?」


「ええ」


 嫣然と微笑む万里。

 美貌は、もう目と鼻の先まで迫っている。

 さらには想定外の返答がブッ込まれ、千里の理性はギシギシと軋みを上げている。


「言い淀んでるってことは、わりと私のこと好きな感じよね」


「そうなんだが……そうなんだが……」


「じゃあ、いいじゃん」


 順番が気になるなら……キスしよっか、真壁。

 万里はさらに距離を縮めてくる。

 頬に吐息を感じた。


――ん?


 かすかな違和感とともに――万里の唇が千里の唇と重なった。

 口の中に伸びてきたぬるぬるした感触に舌を絡めとられて息苦しさを覚えた。

 でも――


――これ……夢だな。


 わかってしまった。

 だって、万里の唇が――香ばしい焼きそばソースの味のはずがない。

『ファーストキスはレモン味』なんて少女漫画チックな言葉を信じているわけではないし、生まれてこの方誰かとキスしたことなんてなかったけれど、女っ気のない千里でもそれくらいはわかる。


 気づいてしまうと――視界が揺らいだ。

 折り重なってきたはずの万里の姿がかき消えて、闇が広がって――その暗闇の向こうから声が聞こえた。

 頭に重みを感じ、口の中に何かがツッコまれているような感覚が続き、息苦しさが追いかけてきた。


「……り、千里ったら!」


「これで寝てられるの、凄いわね」


「せっかく気持ちよく寝てるのに悪いよ、ふたりとも」


 怒っている声。

 呆れ交じりな声。

 申し訳なさげな声。


 ゆっくりと目蓋を上げると――ショートカットの髪形な見慣れた顔が視界に飛び込んでくる。

 旅行先から実家に帰ってきたときのような安心感があった。


「ゆ、う……か」


 うまく声が出せない。

 口を動かしたらモゴモゴした。

 中に突っ込まれているのは、割りばしと焼きそば。

 割りばしは由宇ゆうの手に握られていて、由宇の顔はメチャクチャ笑っていて。

 その後ろからは、ジト目の万里と口の端を引きつらせた陽平ようへいが見下ろしてきていた。


「……寝てたか」


「カッコつけてるの、ダッサ」


 焼きそばを咀嚼し、飲み込んで、ふーっと息を吐いた。

 自分の吐息に交じるソースの匂いに気づいて、思わず顔をしかめる。

 夢の中とは言え、さっきまであんなにロマンチックなシチュエーションだったのに。


「由宇、お前な……下手すると窒息するところなんだが」


「え、そう? いくら千里でも、さすがに起きると思ったんだけど……ほら、信頼感?」


 ふざけたことを抜かした由宇の頬を指で抓りながら、上半身を持ち上げながら、周囲を見回した。

 口のあたりはベタベタするし、やたらと喉が渇く。


「これ、飲みなさい」


「すまん、助かる」


 万里に差し出されたスポーツドリンクを口に含んで、ようやくひと息ついた。

 じっとりした眼差しを感じて目を動かすと、由宇が半眼で睨んできている。

 今まで一度も見たことがない幼馴染の表情、意味するところは不明だ。


「どうした?」


「別に」


 尋ねてみると、頬を膨らませてそっぽを向かれた。

 これほど説得力のない『別に(なんでもない)』は聞いたことがない。

 千里が知る『日高 由宇ひだか ゆう』は感情豊かな少女ではあるが、こんな感情を向けられるのは初めてで、戸惑いを覚えずにはいられない。

 頭の後ろをかきながらふくれっ面の幼馴染にかけるべき言葉を探す千里を余所に、由宇の傍に腰を下ろした陽平が『まぁまぁ』と恋人をなだめていた。

 ほほえましい光景だと思った。

 由宇に寄り添うべきは自分ではなく陽平だ。

 どうやら追及の必要はないらしいと納得できて……万里に視線を送った。


「もう何ともないのか?」


「おかげさまで。迷惑かけたわね」


 腰に手を当てて見下ろしてくる万里。

 ピンと背筋は伸びていて、少し胸を張っていて。

 一時は蒼白だった顔には、健康的な赤みがさしている。

 腰まで届く艶やかなストレートの黒髪が、風に吹かれてそよいでいる。

 スラリとした姿勢は今日出会ったばかりのころに似ていたし、普段の学校で目にする彼女のそれと大差なかった。

 つまり、いつもの『泉 万里』だ。

 付け加えるならば、水着(特に胸のあたり)はしっかり整えられていた。


――よかった。


 安堵が胸に去来した。

 自分がどれだけ眠っていたのかは不明だが、万里は溺れて消耗した体力をほぼ取り戻したと見てよさそうだ。

 ホッとした次の瞬間、嫌な予感が脳裏によぎる。

 聞かず知らずですませたかったが……放置するには危険すぎる。


「……俺、何か変なこと、寝言で言ってなかったか?」


「変なことって、どんなこと?」


 堂々たる態度から繰り出される胡乱げな眼差し。

 上目遣いなら可愛らしいが、見下されると……これはこれで悪くない。

 断じて千里はマゾではないが、この角度からしか摂取できない特殊な栄養素が存在すると言われたら信じてしまいそう。

 それはともかく。


「なんでもないならいい」


「なに、真壁ってばエロい夢でも見てたの」


「だから、何でもないならいいって言ってるだろうに」


「図星か。あ、まさか……」


 ニヤニヤと笑っていた万里が身体を抱きしめながら距離を取ってくる。

 その顔がやけに真に迫っていて、名誉棄損だと主張したかったが……彼女の言うとおり完全に図星だったので、視線を逸らすことしかできなかった。

 

――ここで言い返せないの、ダメじゃないか?

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