第30話 夜空に咲く、あの花よりも その3

「い~ずみさん、一緒に行こ!」


 その声は、ことさらによく透った。

 万里ばんりを取り巻いていた連中が、乱入者に厳しい視線を向ける。

 四方八方から繰り出される不可視の矢をものともせずに、由宇ゆうは彼女に身を寄せて――そのまま腕を組んだ。


「……ッ!?」


 不穏なざわめきが広がっていく。

 道を行く人々の反応は様々だった。ある人はそそくさと距離を取り、またある人は興味津々と言った眼差しを向けている。

 いずれにせよ、目立っている。

 それも、よくない意味で。


「おい! 日高ひだか、お前」


「久しぶり、いずみさん。あれから、どう?」


「え、ええ……久しぶりね、日高。えっと……その……」


 由宇の無邪気な声が、荒ぶる誰かの声を遮った。

 遠くから見ていてもハッキリわかる。あれは絶対にワザとだ。

 口の端を引きつらせた万里は由宇を見て――千里せんりたちを睨みつけてくる。


『何やってんのよ、アンタたち!』


 その眼差しは、キレ気味な心境を雄弁に物語っていた。

 ……というところまでは千里たちも把握できるのだが、そんなエグイ顔をされても困るというのが本音だ。

 こっちだって何がどうしてこうなったのか、サッパリわかっていないのだ。


「なぁ、どういう状況なんだ?」


「……由宇が泉さんを連れ出そうとしてる?」


「いや、それはわかるんだが……なんで、そうなる?」


「それは……たぶん友だちが困ってたから助けよう、みたいな?」


 友だち。

 由宇にとって万里は友だち。

 友だちだから、友だちが困っているから助ける。

 そのシンプルな論理は千里がよく知る彼女そのものとしか言いようがなく――眩しくて、危うかった。


「他の連中を敵に回しても?」


「そうだろうね」


 僕も行くかな。

 サラッと言い置いて、陽平ようへいも歩みを進める。

 流し気味に向けられた友人の目が『どうするの?』と問いかけてきていた。

 答えは決まっている。


「俺も行く」


「だよね」


 陽平に負けじと、大股で接近を試みる。

 ピリつく空気を肌で感じる。剣呑な眼差しを感じる。ここに徒手空拳で飛び込んだ由宇の勇気に感嘆せざるを得ない。

 ……なお、その本人に目を向けると、顔に『後は任せた!』と書いてあった。


――こ、コイツ……


 頭に鈍い痛みを覚えて、反射的に顔をしかめた。

 信頼されているのだと好意的に解釈して、どうにか痛みをやり過ごす。


「泉さん、久しぶり」


「……ええ、池澤いけざわくんも、真壁まかべくんも」


 万里の、漆黒の瞳が揺れている。

 トラブル必至のきな臭さを彼女も感じている。

 まさに一触即発な状況を前に――千里は呼吸を忘れた。我も忘れた。


――きれい、だよな。


 見惚れた。

 見惚れてしまった。

 海で目に焼き付いたエネルギッシュな姿とも、図書室で目にした普段の姿とも異なる、夏の夜にピッタリな浴衣姿に。

 浴衣の白地には、花が咲いている。

 植物に詳しくない千里には、その花の名前はわからなかった。

 結い上げられた黒髪、白く透きとおるうなじ、うっすら施された化粧、わずかに陰る表情。

 すべての要素が複雑に絡み合って……しとやかとか、たおやかとか、そういう表現がよく似合う絶妙な佇まいを形作っていた。


「……」


「……」


「……」


 見惚れているうちに、不自然な静寂が訪れていた。

 万里と陽平は、いずれも校内に知らぬ者なしの有名人だ。

 ふたりの会話に口を挟むことができる人間なんて、そうそういない。


――嵐の前の静けさって感じだ。


 陽平が由宇と付き合っているのは周知の事実。

 つまり、彼は乱入してきた由宇の味方とみなされている。

 お世辞にも好意的とはいいがたい眼差しを突き刺してくる連中の脳裏には、ふたりが万里を遠くへ連れ去っていく未来がありありと浮かんでいるに違いなかった。


――それは、よくないよな。


 昂っていた心が静まっていく。

 由宇は衆目を恐れることなく万里の傍に寄り添った。

 陽平は、恋人の思いを汲んで万里を他のクラスメートから引き離そうとしている。

 でも。

 それは。

 本当に彼女たちがするべきことなのか?


――違う。


 一刻も早く万里を連れ出したい。

 白雪しらゆきとの作戦がどうこうではなく、困り果てている彼女を捨て置けない。

 由宇の尻馬に乗っているみたいになってしまったが――これは、自分がしなければならないことだ。

 違う。

 そうじゃない。

 自分が、そうしたいのだ。

 激情が喉を震わせ、口をついて溢れ出る。


「泉、もしよかったら俺と――」


「四人で一緒に回ろうよ!」


「ほへ?」


 伸ばそうとした手が、空を切った。


「……いいの?」


 いいのか?

 よくないのか?

 迷っている暇はなかった。

 なお、さっきの激情はどっか行った。


「あ、ああ。もちろんだ。なぁ?」


「うん、まぁ……そうだね。あれ、そうだよね?」


 万里の瞳は由宇と陽平をチラチラと掠めて、千里に向けられた。

 由宇は『もちろん』と笑っていたし、千里たちも同じように笑った。

 ……心の中で由宇に『なんでやねん!』と猛烈なツッコみを入れながら。


――そういう流れじゃなかったよな!?


 由宇を睨むと、これ見よがしに万里に身を摺り寄せやがる。

 なんだか自分が猛烈な勘違いをしていたのではないかと思えてきた。

 この幼馴染が何を考えているのか、ここ最近わからなくなることが増えていたが……たぶん今日が一番わけわからん。


「お前ら、いつの間に……」


 呪詛めいた呻きを零したのは、万里グループの男子だった。

 目の前で繰り広げられている光景から、万里は自分よりも乱入者に心を傾けていることを察したのだろう。


――ふぅん。


 敵意を向けられても、特に何も感じなかった。

 勇敢になったわけではなく、鈍感になっただけだと思った。

 万里とか、由宇とか、白雪とか……とかく強烈なプレッシャーと正面から向かい合う機会がやたらと増えていたせいか、なんか慣れてしまった。

 彼女らの凄まじい威圧力に比べれば、この程度の敵意なんてそよ風に等しい。


――いや、待て。このまま放置はマズいか。


 気づいてよかった。

 彼らのヘイトが由宇に向けられる未来は避けたい。

 最初にこの場に飛び込んだのは彼女だし、今なお万里と腕を組んで見せつけているのも彼女なのだ。

 せめて尻ぬぐいは引き受けないと、立つ瀬がない。


「いつの間にと言われてもな……この前たまたま会ったんだ。外で」


 外で。

 つまり、夏休み中に。

 眼鏡の位置を直し、肩を竦めた。

 思いっきりワザとらしく、見せつけるように。

 海でとかナンパしたとか、余計な情報は付け加えなかった。

 エロい水着を着ていて、アクシデントで脱げかけて、ほとんど裸で抱き合ったとかも言わなかった。

 

――だから、そんな顔するなよ……


 万里の目つきが鋭さを増していた。首筋がピリピリする。

 変なことを口走ったらタダじゃすまないから。

 彼女の目は口以上に雄弁だった。


「ちょっと、そこ、何やってるんですか!?」


 委員長だ。

 聴衆の誰かが気まずげに呟いた。

 悲鳴に続いてハァハァと息を荒げながら、小柄な人影が割り込んでくる。

 自分が企画したイベントでクラスメートがトラブルを起こすなんて、生真面目な彼女には酷なことをしてしまった。

 申し訳なさは募るが、後悔はしていない。


「委員長、なんでもないない。泉さんと一緒に屋台回ろうって話してたの」


「それは……」


 サクッと答える由宇を前に、委員長は絶句した。

 万里の人気は言うまでもなく、いつもは彼女を守護っている白雪やステラの不在も把握している。導き出される展開は予想できるし、由宇の発言から何がどうなっているのかも瞬時に理解した。

 そんな顔だった。


「騒がせて悪かったわね。委員長、私、今日は日高たちと回るから」


「そ、そうなんですか!?」


「ああ。『日高たち』ってことは、もちろん俺たちも入ってるんだろ?」


「……一応、そのつもり」


 なんだよ『一応』って。

 そのひと言を口にするには、足りなかった。

 経験とか、勇気とか、ユーモアセンスとか、その他いろいろ。


「じゃあ、お言葉に甘えよう。陽平も、それでいいよな?」


「ああ。よろしくね、泉さん」


「ええ、よろしく、池澤くん」


 ふたりが余所行きな笑顔を交わしあうと、一帯を取り巻いていた緊張感がほどけて消えた。

 火種は残っているにしても、表向きは誰もが矛を収めざるを得ない。

 教室の二大巨頭には、それを強いるだけの力がある。


「……」


 胸に痛みが奔った。

 グッと奥歯を噛み締めて、耐える。

 できれば自分の力だけで彼女を助けたかった。

 それは思い上がりだと何度自分に言い聞かせても……胸が苦しい。


「……アンタにも、ちゃんと感謝してるから」


 そばに寄ってきた万里が、そっと耳元で囁いた。

 ただそれだけで、胸に巣くっていた澱みはスーッと溶けて消えた。

 我ながら現金なものだと苦笑せざるを得ない。

 後頭部をガリガリとかきながら、視線を外しながら、口を開いた。


「礼は由宇に言ってくれ。俺は流れに乗っかっただけだ」


「それは……そうね」


「そこで頷かないでほしかった」


「はぁ、あのね……どっちなのよ、アンタ」


 締まらないわね。

 ふわりと浮かぶ柔らかい笑顔が、眩しかった。

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