第25話 平穏はいまだ遠く その3

「……」


 どうにも居心地が悪かった。

 我ながら借りてきた猫みたいだとも思った。


――仕方ないだろ……


 誰にも聞こえない言い訳を心の中で呻いた。

 先ほどまで居座っていた学校の図書室とは何もかもが違うのだ。

 例えば千里せんりが腰を下ろしている椅子は瀟洒な店内の雰囲気によく似合っているものの、どこにでもいそうな一介の男子高校生とは致命的に噛み合ってない。

 絵面的に。

 ……と言うか店全体が千里と噛み合ってなくて、とにもかくにも落ち着かなかった。

 そして――


真壁まかべくん、どうかした?」


「いや、別に何も」


 正面に向かい合って座っている文学少女然とした同級生が小さく頭を揺らした。

 アンダーリムの眼鏡と黒い瞳が目を引く知的な美貌。

 セミロングな黒髪のポニーテール。

 夏なのに黒タイツ。

 白い肌。

 個々のパーツはチグハグなのに、全体で見ると絶妙にマッチしている彼女は『高峰 白雪たかみね しらゆき』と言う。クラスメートであり万里ばんりの親友でもある彼女と、学校から少し離れた喫茶店で一対一の真っ最中だった。


「勉強の邪魔してごめんね」


「問題ない」


 どっちみち、やる気は失せていたから。

 後段は口に出さなかったが、『そう?』と可愛らしく小首をかしげた白雪には気づかれているかもしれないと思った。


「高峰こそ、あんなところで何をしていたんだ?」


 彼女は文芸部に所属しているから、図書室に姿を現すことは不自然ではない。

 それでも、彼女と言葉を交わすのは初めてで、しかも、話しかけてきたのは彼女の方で……そこにどんな意図が込められているのかわからなかった。

『高峰 白雪』のことを、何も知らない。

 知っているのは……彼女が万里の親友であることだけ。

 少しでも彼女の人となりを探るためにも、問いかけずにはいられなかった。

 

――でもなぁ……思い当たるところ、あるんだよなぁ……


 彼女は、千里が万里と関わることになった原因のひとりなのだ。

 校内において絶大な人気を誇りながら校外に彼氏を作っていた白雪は、同じく万里の親友にして校外に彼氏を作っていた『星崎ほしざき ステラ』と謀って、万里をダシに彼氏と海デートしていた。

 そして、ひとりハブられた万里に千里が声をかけて――

 このタイミングで白雪に話しかけられるなんて、正直アレ絡み以外は想像できない。


――本来ならば感謝すべきところだが、さっきの泉を見てるとなぁ。


 白雪とステラが彼氏たちと(自主規制)することを止めようとした万里は、最終的に『好きにやらせておけばいい』的な千里の言葉を受け入れたわけだが……帰途といい、さっきの態度といい、彼女が今なお友人たちに複雑な感情を抱いていることは疑いようがなかった。


「そんなに睨まなくてもよくないかな?」


「睨んでいたか? すまん、初めて話しかけられたから緊張している」


「緊張って、同じクラスなのに。それに……私、ときどき真壁くんのこと、見てたよ」


「俺も、高峰が図書室で本を漁っているところは見たことがある」


「そうよね。私、文芸部だからね」


 白雪は、ずっと穏やかに微笑んでいる。

 学校指定のワイシャツの内側で、千里の背中を冷たい汗が流れ落ちた。

 学年主席の常連でもある彼女は千里にとってライバル的存在(一方的にライバル視してるだけ)でもあり、何なら苦手意識すらあった。


――やりづらいというか、油断がならないというか。


 向かい合っているだけで、不可思議なプレッシャーに気圧される。

 何もかも見透かされているような、いつの間にか手のひらで転がされているような、そんな感覚が拭い去れない。

 店内には冷房が効いているにもかかわらず、首筋にじっとりした湿度を感じる。


「それで、俺に何の用なんだ?」


「真壁くんって、意外とせっかち?」


 口元に手を当ててコロコロと笑う白雪を、キッと睨む。

 白雪は――目を細め、コホンと小さく咳ばらいをひとつ。


「ごめんなさい。からかうつもりはなかったの」


「気にしていない。それより早く用件を言ってくれないか」


「うん……えっと、真壁くんから万里にとりなしてほしいかなって」


 聞き間違いかと思った。

 白雪の頼みごとは、あまりに直球だった。

 とっさに変な声が出なかった自分をほめてやりたい。

 そう思いながら組んだ手をギュッと握りしめた千里を、眼鏡越しにじーっと見つめていた白雪は……見せつけるように口の端を緩めた。


「驚かないんだ?」


「え?」


「『万里にとりなして』って……私と万里は親友なのに変じゃない?」


「あ……」


 指摘されて、ミスに気が付いた。

 白雪と万里(とステラ)の仲の良さは校内の誰もが知るところ。

 しかし……現在、彼女たちの間に険悪な空気が漂っていることを知るものは、ひとりもいないはずだ。

 原因となったあの海から、まだ数日しか経っていない。

 少なくとも彼女たちの誰かと出会う機会がなければ、彼女たちの仲が拗れているなんて想像することすら難しい。

 そして、今は夏休み。

 そんな機会はそうそうない。


『あ……それ、口止め』


 万里と交わした約束――あの日のことは誰にも言わないこと――に意識が囚われ過ぎていた。彼女に口止めされた内容は多岐に渡るが、白雪たちとの関係が思わしくないことも当然のように含まれていたから、当事者である白雪を前にして警戒心が高まり過ぎた。

 くれぐれも余計なことを口にしないように、と。

 それが、裏目に出た。


「真壁くんは、私たちと万里がトラブっていることを知っていた。そうでないなら『何を言っているんだ、お前は?』って感じに尋ね返してこないと……おかしくなっちゃうよね?」


 顔はニコニコ笑っているのに、眼鏡の奥の瞳は笑っていない。

 鋭い眼光が、真正面から千里に突き刺さる。


「夏休みに入ってから、真壁くんがほとんど毎日図書室にいるのは知ってた。私も文化祭の準備があるから割と学校に来てるしね。さっきは万里と鉢合わせしそうになってビックリしちゃったけど……でも、万里って自分から図書室に足を運ぶタイプじゃないのよね。真壁くんと万里は……いつ、どこで仲良くなったのかな?」


 すごく興味あるな。

 そして、どこで私たちの話を聞いたのかな?

 鈴の音に似た声色なのに、ひと言ひと言に込められた圧力が凄まじい。

 店員が運んできたアイスコーヒー、その琥珀色の液体に浮かぶ氷が触れ合う透明な音が耳を震わせるまで、千里は自分が呼吸を忘れていたことに気づかなかった。


「万里と何を話してたの?」


「……たいしたことじゃない。学校に忘れ物したって言ってただけだぞ」


「忘れ物が何だったのか聞いたりした?」


「宿題だと」


「曖昧。現物は見た?」


「見てない。泉を疑う理由がない」


「まぁ、それはそう。そういうことにしておこっか」


「……」


 言葉を交わすごとに緊張が高まっていく。

 迂闊なことを口走ると、何を感づかれるかわかったものではなかった。

 ただ……白雪の言葉の端々からは、千里と万里の関係を疑っている意図が見て取れる。

 親友に近づく男子を篩にかけているのかもしれない。

 思い過ごしだ。

 まだ、そんな段階じゃない。

 そう言ってやりたくて、でも、その機会は訪れなかった。


「それで……真壁くんは、どこまで知ってるのかな?」


 視線から察するに、私にあまりいい印象を抱いていないようだけど。

 少し前のめり気味な白雪、その小柄な身体から発するプレッシャーが一段階レベルアップしたように感じられた。


「話せない」


「話せない、か……万里に口止めされているってこと?」


 思いっきり踏み込まれた。

 口にしたのは、たったの五文字なのに。

 まるで見ていたかのように、白雪は正解にたどり着く。


――鋭すぎるだろ、コイツ……ッ!


 肌がゾワリと粟立った。

 今さらながらに戦慄を覚えるも、時すでに遅し。

 彼女の切っ先は千里の喉元に突き付けられていて、もはや逃げ道はどこにもないように思われる。

 ならばいっそ……と自棄になりかけて、グッと言葉を飲み込んだ。


――堪えろ。


 万里と約束したのは、ついさっき。まだ一時間もたっていない。

 舌の根も乾かないうちにペラペラしゃべるわけにはいかない。

 たとえそれが、無意味なこだわりに過ぎなかったとしても。


「……」


「……」


 何も言わない代わりに、真っ向から睨み返した。

 そんな千里を見て、白雪は軽く頭を振った。

 縦に。

 なぜか――少し嬉しそうに。


「わかった。じゃあ、真壁くんは概要を知っているという前提で話すから……とりあえず、私の言い分を聞いてから判断してほしいかな」


 正しいとか正しくないとかじゃなくて。

 そう続けた白雪の表情は、わずかに陰っているように見えた。

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