第5話 ノープランと責めないで その1
「
サクサクと砂を踏む音に交じって、トゲトゲした声が耳を撫で上げてくる。
心地よいのに心中穏やかではいられない、不思議な感覚。
肌にまとわりつく空気に微妙なピリつきを感じる。
唾を飲み込む喉の動きに引っかかりを覚えた。
眼鏡の位置を直すふりをしながら横目で様子を窺ってみれば……並んで歩く
すごい気まずい。
彼女の整った顔立ちに変化は見られなくて、向けられる漆黒の瞳には生暖かい呆れの色合い混ざっていた。
緊張しているのは自分だけらしい。
その認識がむき出しになった肩に重くのしかかってくる。
腹が立っているわけでもなく苛立っているわけでもないのだが、ただ釈然としなくて胸の奥がモヤモヤする。
――これは……よくないな?
この感情を表に出すのはマズい。
気分を換えなければならない。ここで、今すぐに。
慌てて胸に手を当てて、すーっと息を吸って、吐いて、軽く頭を振って――ふと、気になった。
「もしもナンパに成功してたらって言ってたが……成功してないか?」
夏の砂浜で手持ち無沙汰にしていた万里に声をかけて、一緒に遊ぶことになった。
これはナンパ成功と呼んでも差し支えないのではなかろうか。
……と思ったのだが、万里の意見は違ったようだ。
彼女の眼差しがスッと細められた。
「さっきも言ったけど別にアンタと付き合うってワケじゃないし。友だちの恋を応援するためにハブられた者同士で……まぁ、同情とか連帯感みたいな感じでしょ?」
だからナンパに乗っかったわけじゃない。
誘われたら喜んでホイホイ着いていく軽い女と思われるとムカつく。
万里の口から機関銃のごとく『ノー』がぶちまけられる。それが嫌味ったらしく聞こえないのは、ひとえに彼女の美貌が圧倒的で見ているだけで幸せになれるレベルの代物であること、言動がサッパリしていて不快感を伴わないこと、そして……彼女の言い分に正しさが含まれていることなど、様々な理由があると思われた。
――同情……そうなんだよな。
それは紛れもない事実だった。
『俺たちは、いったい何をやっているんだろうな?』
胸の奥でどろりと蠢く汚濁を、万里に気付かれないように飲み下す。
眼鏡のフレームを中指で押し上げ、肺にたまった空気をため息ととられない程度に吐き出した。
「心配するな、俺だって泉と付き合えるとか思ってないから」
「何その言い方、ムカつくんですけど」
「どうすりゃいいんだ……」
付き合うつもりはないと言ったくせに、付き合えるとは思ってないと答えたら怒る。
自分は根本的に何かトンデモナイ勘違いをしているのだろうか?
疑問は尽きないし、答えをくれる相手もいない。
頭がパンクしてしまいそうだ。
「と・に・か・く、女の子と遊ぼうってプランを立てたんだったら、どこで何するか~とかキチンと考えとかないとダメってこと。行き当たりばったりとかってお呼びじゃないの。何度も言うけどさぁ、本当にナンパが成功したとしても……アンタ、速攻で逃げられるわよ」
「貴重な意見、ありがたく拝聴しておこう」
「……まぁ、私はナンパに引っかかったわけじゃないから別に怒ってないけどね。ヒマだから逃げたりもしないし。ヒマだから」
「わかったわかった」
「ホントにわかってんの、もう……まぁ、いいけど。それで、これから何しよっか?」
念押しじみた前段とカラッとした後段、声の落差が激しい。
耳が痛い説教もとい忠告を繰り返してはいるものの、ふがいない千里に失望して『ハイさようなら』と見捨てるつもりでもないようで……
――何を考えてるんだろうな、コイツは。
わけわからん。
ほとんど接点がなかったせいか、万里の思考回路が掴めない。
同行する話がまとまったときに颯爽と踵を返した後ろ姿から妙案を持っているのかと期待していたのだが、そんなことはなかった。
……とは言え『お前だって何も考えてなかっただろ』なんて、この場で指摘するほど千里は野暮でも無謀でもない。
軽く空を見上げて――余計なことを考えるのをやめた。
わからないものはわからない、それでいいじゃないか。
――夏だし……夏かぁ……夏、夏……夏だ!
開き直ると同時に、アイデアとも呼べない何かが降臨した。
頭の中で整理するより早く、口が勝手に動く。
キーワードは――夏!
「よし、夏の海で思いつくものを適当にあげていくか」
「うん、いいね、それ採用!」
弾みの利いた万里の声を意外に思った。
正直ツッコミ待ちだったのに。
「……
「そりゃそうでしょ。別にアンタのお手並み拝見って流れでもないし。どっか出かけるときって何するか考えるのも楽しくない?」
「さっきと言っていることが違う気もするが、楽しんでくれるのなら問題ない」
「ナンパじゃないからね。付き合ってるわけでもないからね」
「はいはい、わかったわかった。偶然な、偶然」
「……何それ、一回でよくない?」
「お前な……」
「まいっか」
万里は顎に白い指を添え、そっと目を伏せた。
数歩先の足元に向けられる眼差しは真剣そのもの。
どうやら、これが彼女が考えごとをするときの癖らしい。
――はぁ……こういうところだよな。
些細な仕草のひとつひとつが、イチイチ絵になる。
どれだけ塩対応を見せつけられても『泉 万里』に心奪われる男子が後を絶たないはずだと改めて思い知らされたし、そんな彼女と並んで浜辺を歩いている今この瞬間のありえなさに思いを馳せずにはいられない。
感謝すべきとまでは思わないが感激はしていたし、できることなら万里を楽しませたい、楽しんでもらいたいという情熱的な何かが湧き上がってくる。
これまでにない不思議な気持ちに困惑する千里を余所に、楽しげな声がすぐ傍から耳朶をくすぐってくる。
「夏の海と言えば……うん、スイカ割り!」
「ふたりでスイカ一個食べるのはキツそうだな。とりあえず泳ぐか」
「え~、泳ぐのは最後の選択肢って気がしない? 海の家でビーチボール借りてビーチバレーはどうかな?」
「ビーチバレーか、ルールがわからん。海の家に行くなら何か他のものも借りられないか?」
「他って……面白そうなものある? ビーチバレーのルールなんて私も知らないけど、あれってボールを落とさないようにしてればいいんじゃないの?」
「あれ、そうだったか? まぁ、う~ん、面白そうなもの面白そうなもの……ふむ、サーフィンとか?」
「サーフィンって、できるの?」
「まさか」
「じゃあ言うなって」
「とりあえず言ってみただけだ。海の家、海の家……飯を食うには、まだ早いな」
「もうそんな時間だっけ? お腹減ってないし、あんまり食べたくない」
「そうなのか?
「他の女の名前を出すなっつーの」
「すまんかった」
つらつらと列挙してみても、なかなかしっくりこない。
横で首を傾げている万里も似たり寄ったりのようだが……妙に機嫌がよさそうに見えるのが、よくわからない。
頭の動きに合わせてサラサラと流れ落ちる黒髪を追いかけていると――その先で脚の動きに合わせて揺れる白いお尻に目が吸い寄せられる。左右が細いひもで結ばれている極小のボトムスから零れる柔らかそうな半球状の果実めいた肉、ジロジロ見てはいけないとわかってはいるのだが……本能に抗うことは難しい。
――クソッ、涼しい顔しやがって。
心の中で恨み節が止まらない。
並んで歩く万里の表情はクールで溌溂としたまま。
自分だけが動揺しているという事実に、焦燥に似た感情が湧き上がってくる。
身体の内側を流れる血潮が耳の奥でごうごうと唸る。錯覚のはずなのに……その音に阻まれて万里の声が遠ざかっていく。
「真壁、聞いてる?」
「……ああ」
「ねぇ、真壁ってば! 無視すんな!」
「ヘ~イ、そこのカノジョ。俺たちと遊ばない?」
その声は、まったくの不意打ちだった。
浮ついた耳障りな響きと、どこかで聞いたような誘い文句。
煩わしいノイズが、ひとり悶々としていた千里を思考の底から引っ張り上げた。
発信源に目を向けると――まったく見覚えのない男がふたり、ニヤニヤと笑みを浮かべながら近づいてくるところだった。
猛烈に、嫌な予感がした。
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